伊達市市民活動支援センター 事務局長 赤間謙一さん

 

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高子に来て足掛け26年

昭和21年に大連(満州)で産まれ、22年に引き上げた。父の実家が仙台だったので、まず仙台。山形に引越し、大学は同志社。京都、大阪で勤務し、東京、福島まで来た。このエリアとの関わりはなかった。かろうじてあるとすれば、当時、福島で叔父が仕事していた。新聞。読売新聞の政治部長。民友が読売新聞系だったので。最初は専務クラスで入って、最終的には社長をしていた。家を借りてくれ、と言われて、練馬の家を借りた。叔父のお嬢さんがそろそろ結婚する。ちょうどその頃、叔父の娘さんよりも、赤間さんが少し早く結婚した。お嬢さんとご主人は勤務医。孫を叔父に預けるという

 

奥さんの英断は一瞬だった

職場は神楽坂。職場近くの保育所に預けていた。小学校に上がっても、それは難しい。山も川もあって、と探した。飯能から浦安まで探したが手が出ない。叔父が孫の遊び相手に、うちの子供を連れてきてくれないか、と。GWの前、桃の花がきれいなとき。家探しているなら、駅前に分譲があるよ、と。叔父としては、娘夫婦が通っているのだから、通えると桃畑を見て決めた。結論としては、決めてよかった。ハイタウンの中。建売。奥様が決めた。

よく考えると、高子駅前5分。自動車が運転できない自分にとっては良かった。奥様は社長だけど、東京の草原社を赤間さんに任された。奥様が無謀にも会社を作った。

 

奥様は日本初?いや世界初の編集プロダクションを作られた

奥様の作った会社は初の「編集プロダクション」。務めていた会社(家庭画報など世界文化社)で務めることもできたが、使い込まれることが見えていた。雑誌社ではなく編集プロダクション。当時としては珍しい。欧米の事例を見てつくったのではない。家庭画報ではなく、レコード企画、絵本づくりをしていた。井上ひさし、五味太郎さんが駆け出しのころ。梅田としおさん、3作目か4作目。まだ若手だったが、作家を育てるような仕事をしていた。作家とのコミュニケーションを取っていた。独立するなら、世界文化じゃなくて、赤間さんに頼む、という話になった。服部幸一さんがひっぱって、入れた。「まりちゃんを辞めさせてどうする」となった。世界文化社が困る形だが、編集長が応援。仕事を回すとなった。市ヶ谷の凸版印刷も目を付けて、「うちの仕事をやってくれるか」となった。そういう幸運なスタートを切ることができた。神楽坂には音楽の友社がある。「音楽もできるなら」と。楽譜を書く人が株主になってくれたり。

 

支援センターの仕事、ほとんどが今までの仕事のノウハウが役に立つ