ここでは、安倍晴明 について紹介します。

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1.平安時代の陰陽

  鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(御門家)の祖。

  晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。

2.陰陽師への道

  陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽。

 天暦2年(948)大舎人。天徳4年(960)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は、村上天皇に占いを命ぜられてお、出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。50歳頃、天文博士に任ぜられる。

 貞元2(977)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上にあった。

 天元2年(979)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったらしく、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。

 花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった。

 正暦4(993)年2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊疫病神退治をする安倍晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に除された。

 寛弘元(1004)年7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降った。

参考資料:安倍晴明