鴨居の由来

     鴨居は、白浜町才野(安久川) 西磯山の西方にある小さな集落です。

 集落の南面は、小さな湾に向かって開かれており、東・西・北面の三方は、山に包まれています。

 元南白浜有料道路沿線にあり、南紀白浜空港滑走路の南端西側に位置しています。

 1960年代後半に元南白浜有料道路が開通するまでは、陸の孤島と言われる交通不便地でした。

 集落の最盛期は、戸数20戸を数えましたが、安久川地区等に転居する家もあり、現在、戸数は、

 半減しています。

 

 1650年(慶安3年)、瀬戸臨海浦に紀州藩徳川家の別邸が出来て、それ以来、徳川頼宣公(紀州藩主)

 が別邸を訪れるようになり、ある日、鉛山村の三段方面から鴨居の地に出かけられました。

 当時、鴨居には、五左衛門の一家だけが居住しており、頼宣公一行は、この家に立ち寄り、五左衛門

 に「鴨居」という姓と、田畑、家の普請料と漁網一帖を与えられました。 「鴨居」という姓が、集落名に

 なったと思われます。 以来、年貢は免除され、税金免除も明治初年まで続きました。

 その後、1686年(貞亨3年)頃、田辺市江川からカツオ、マグロ漁師7人が、南方漁場への出漁に便利

 な鴨居浦へ、家族を引き連れて移住し、集落が形成されました。

 鴨居家の菩提寺は、白浜町栄の観福寺であり、江川から来た漁民一族の末裔は、鴨居、安久川等に定

 住しており、菩提寺は、田辺市江川の浄恩寺です。

 

 古くから半農半漁によって、集落の生計は維持されてきました。 

 鴨居地内は狭隘で、開墾できた水田は少ないため、才野安久川の水田を耕作していました。 

 収穫した米や稲わら等は、安久川から鴨居浦まで櫓漕ぎの小型漁船を使って運搬していました。

 才野方面から鴨居に嫁ぐ花嫁は、魚船に乗っての嫁入りでした。

 戦前は、漁業が盛んで、地引網漁、鯛網漁が行われていましたが、今では、伊勢海老漁や磯魚漁が細々

 と継承されています。

 戦後は、集落の後背地の山を開墾して耕作地を増やし、農業が主体となり、現在は、花卉栽培が盛んです。

 1990年代の南紀白浜空港のジェット化拡張工事に伴い、鴨居地区内の農地が減少し、才野葦長地区に

 新しい花卉団地が造成され、ガラス温室において、ガーベラ、スターチス、ユリ等が栽培され、京阪神市場

 や産直店等に出荷されています。

 海辺に位置する集落を高波から守るために築造された、石積みの防波堤が残っており、最近になって造られ

 たコンクリート製の巨大防波突堤との対比が見られます。 

 鴨居湾両サイドに広がる磯とコンクリート製防波堤防は、海釣りのスポットになっています。

 

小さな神社

  (1)浦安神社 (通称 「地主さん」「オジノッサン」)

 

    集落の中央部の高台に、鳥居と小さな社が祀られています。 

    無格社の神社であり、明治42年4月18日、神社合祀により、才野の権現平にある熊野神社に合祀され

    ました。

            11月23日の祭には、小さな境内に幟が立てられます。 神輿や獅子舞はありません。(昔は、11月16日

    が祭でしたが、富田地域の祭に合わせて11月23日に変更されています。)

    祭の日に、神社境内と湾内砂浜で、餅まきが行われます。

 

(2)戎神社 (通称 えべっさん)

    

        

    集落中央部の海辺近くに、鳥居と小さな社が祀られています。

    伊勢海老漁など各漁の始まりには、漁師が大漁と安全祈願に、お神酒を供えてお参りしています。

    集落には、「えびす講」があり、くじで選ばれた代表が、西宮の戎神社にお参りするのが年中行事になっていました。

    戦後しばらく迄は、母船に曳航されて、小さな櫓こぎの漁船で、四国の金毘羅さん参りも行われていました。