富里牧羊場跡 について知っていることをぜひ教えてください

撮影:モモンガ

富里市十倉字両国沖1322-4

北海道よりも先に富里で近代的な羊の飼育

http://www.hokuyobank.co.jp/company/report/2008/No146.pdf
北洋銀行「 調査レポート 2008.9月号(No.146)」pp.18
緬羊・ジンギスカン歴史年表
1772 年田沼意次老中に就任、平賀源内、緬羊を飼育させ羅紗の試織に成功
1868 明治改元
1873 徴兵制制定、軍用防寒着として緬羊の需要がたかまる
1875 下総牧羊場開設(千葉県富里市十倉・七栄)
1876 エドウィン・ダン、牧羊場を今の札幌市真駒内に建設着手

 

日本初の牧羊場誕生から皇室の牧場へ

徳川幕府の牧

 明治維新の後、佐倉七牧のうち小間子牧(おまごまき)・矢作牧(やはぎまき)・内野牧(うちのまき)・油田牧(あぶらだまき)・高野牧(こうやまき)・柳沢牧(やなぎさわまき)は、明治政府窮民授産(きゅうみんじゅさん)のために開墾地として払い下げられました。しかし、取香牧(とっこうまき)だけは官有地として残され、旧佐倉牧士が管理を行っていました。明治7年、これまで25人いた旧佐倉牧士・同見習が5人の取締役だけとなり、久能村の藤崎勝左衛門、藤崎忠誠、新橋村の佐瀬長左衛門、香取郡本矢作村の根本鉄平、埴生郡小菅村の篠原権平が取香牧取締役に任命されました。そして、この取香牧取締役は、その後の下総牧羊場、取香種畜場の開設にあたって大きな役割を果たすことになります。

佐倉七牧位置図

用地の選択

 明治8(1875)年5月、大久保利通内務卿によって近代牧畜の必要性が説かれました。そこで政府は東京勧業寮試験場内に牧羊開業取調掛を設置し、本格的な牧場建設のための用地選定に入りました。用地選定にあたって関東地方で数箇所の候補地が設定され、これらの候補地の調査が開始されることとなります。旧佐倉牧もこの時候補地の一つとして選ばれ、千葉県を通じて6月18日付けで調査が行われる旨の通達が行われました。調査団の一行は、7月2日に東京を発ち、房州の大貫山から旧佐倉牧、女化の原(おなばけのはら)、下野(しもつけ)へという順で調査する予定となっていました。この通達を受け、旧佐倉牧が所在する村々の動きが活発になり、官有地である取香牧取締役の役割は一層大変なものになりました。この時、富里村初代村長である藤崎友十郎は、藤崎は旧佐倉牧の調査にあたって、取香牧だけではなく、他の牧の調査にも呼び出しがかかる可能性があると考え、調査の期間内には他所に出かけないようにと取締役らに伝えています。

富里村初代村長 藤崎友十郎

 旧佐倉牧の調査

 明治8年7月8日、調査団の一行は成田に到着しました。調査団は13名で構成され、政府の役人岡田とアメリカ人ジョーンズは駿河屋に、それ以外は小川屋に宿をとりました。この時の記録によると、雨で2日間調査が中止となり、実質4日間で取香・矢作牧を中心とした調査が実施され、15日には次の目的地である常陸女化の原へと向かいます。

 ここで、調査団唯一の外人ジョーンズについて少し触れてみます。ジョーンズは大久保卿が推し進めた牧羊場開設に関して最初から大きな役割を果たしたアメリカ人牧羊家で、アメリカにおいて綿羊事業を行っていた人物と伝えられています。しかし、本国在住中の履歴についてははっきりとはわかっていません。明治の初めに来日し、関東地方を巡って地味や気候などを調査していましたが、友人の大蔵省顧問であったゼネラル・ランドル氏の紹介で大隈重信大蔵卿に「適当な土地を選んで牧羊場を開き、政府の費用で牧草を栽培して綿羊を飼育、政府に対しては毎年1万頭、10~12年を満期として、10万頭の仔羊を提供する」という事業を進言しました。

 これを受けた大隈卿は性質上勧業に該当するとして、内務省の大久保卿へと話を回したのでした。大久保卿は予てから綿羊事業の必要性を説いていたこともあり、すぐさま、可瀬勧業権頭(かせかんぎょうごんどう)と岩山敬義(いわやまたかよし)に命じて牧羊場の開設の要否とジョーンズの計画について検討をさせました。その結果、ジョーンズの計画はそのままでは官民の区別が明らかではないため将来に問題を抱える可能性があること、外国人の営利事業としては許可できないことなどが挙げられました。しかし、最初からジョーンズを政府の雇傭人とし、当初計画を細部にわたって十分検討した上で政府の事業とすれば支障がないとの答申を出しました。そこで大久保卿はアップ・ジョーンズを政府の職員とし、牧羊場を開設させるため、事業計画と見積書の作成を命じました。

 ジョーンズの給料は月給500円とされ、当時としては極めて高給であることから、政府は特別の厚遇を彼に与えたことがわかります。明治8年10月23日、東京を発って富里七栄村に移り住んだジョーンズは民家を借りて居住しますが、その後、官舎ができあがったことからここに移り住みます。翌9年8月には中国、12月にはアメリカに赴き綿羊、牛、馬などを購入しましたが、予想外の伝染病蔓延により、甚大な被害を得ることになります。当初の計画とは大きく食い違う結果に対して鋭意努力を続けましたが、さらなる悲劇が彼を襲うことになります。

アップ・ジョーンズ官舎(現成田市御料牧場記念館敷地内)

 http://www.chiba-web.com/chibahaku/61/ 千葉県博物館協会「成田市三里塚御料牧場記念館」

 明治11(1878)年8月29日の夜、凶賊3名が彼の官舎に押し入り、日本刀を振るって現金を強奪しようとし、ジョーンズとたまたま官舎に止宿中の彼の友人、横浜居住の司法省雇アメリカ人ルッセルの3人が傷を負ってしまいます。中でもジョーンズは相当な重傷であり、すぐさま手当てを受けて一命を取り留めたものの十分な快方が得られず、内務省は文部省に依頼して東京の医学部病院に入院させることとしました。牧羊場開設から5年、家畜管理の方法や農機具の使用方法もわかってきたことから、政府は明治12年4月にその任を解くこととし、その功績を称えて錦一反を贈りました。退職後のジョーンズは母国アメリカに戻った後南米に渡り、その後新たに牧畜事業を興したことが分かっています。

 牧羊地の決定

 候補地の調査が次々と実施されていく中、7月31日には取香牧や隣接の牧々が牧羊地として決定しました。大久保利通は牧羊地と決定した取香牧および近隣の牧々見分のため9月25日午後6時40分、成田の地に降り立ちます。 そして、翌26日には取香牧、矢作牧、内野牧、高野牧を見分しましたが、取香牧の一部であった、現在の両国付近で土手に駆け上り、「ここが適地である」と一言、同行者に告げたというように伝えられています。

取香種畜場の開設

 下総牧羊場の開設の動きの中で、当初予定されていなかった取香種畜場の開設構想が生まれ、牧羊場と同時に開設されることとなります。種畜場が併設されるに至った経緯については2つの理由が考えられており、一つは、明治維新後欧米に追いつくために保護育成された殖産興業政策の一環として取り入れられたというものです。これには大久保内務卿と岩山勧業権助の牧畜に対する深い理解があったからにほかなりません。

 先にも触れたように、牧羊場の開設は大久保内務卿の力によるところが非常に大きいのですが、種畜場の併設に関しては岩山の考えが大きなウエートを占めていると考えられます。岩山はアメリカで牧畜業について学び、大陸の大規模な牧畜を目の当たりに見た経験の持ち主であり、家畜の育成から飼育までを一貫した流れの中で行うべきだと考えていたのではないでしょうか。牧羊場の選定を行う調査の中で、官有地の取香牧は他の候補地に比較して既に整備された土地であったことなどが決めてとなり、種畜場構想が短期間のうちにできあがったものと考えられます。

 そしてもう一つの理由は江戸幕府直轄の牧場として、享保期以来の伝統に培われた牧士達の牧畜に関する知識にあったものと考えられます。5人いる取香牧取締役は江戸時代から引き続いて馬の飼育に当たってきた家柄であり、これら牧士の家系が代々受け継いでいた牧畜に関する豊富な知識は種畜場の開設にあたって大きな影響を与えたものと考えられます。牧畜は動物の生態のみならず、その土地の気候・風土などを基に行われるものであり、牧の地形に至る隅々の情報を有している取締役達の存在は、種畜事業に欠かせない大きな財産であったと考えられるのです。

 両国事務庁の設置

 下総牧羊場は、取香種畜場として使用されることとなったため、開墾会社に払い下げられた元矢作牧、内野牧、高野牧を買収して設置することに決定し、土地の買収に当たっては千葉県に委ねられました。その買収面積は2900町歩余(約2900ha)といわれています。

 下総牧羊場と取香種畜場の事務庁ができるまでの間、七栄村にあった元開墾会社の建物が利用され、形的には牧羊係りと牧畜係りに分かれて仕事が分担されました。下総牧羊場の事務庁は、元高野牧であった両国地区に建設されることとなっており、そのための見分が明治8年10月13日に実施されています。明治8年末までに仮の事務庁が建設され、それまで利用していた七栄の建物は牧羊事務庁分局として使用されました。明治9年7月に本庁舎が落成し、下総牧羊場としての機能が整いましたが、その年の10月3日の夜、賊が押し入ったと記録が残されています。

 三里塚事務庁の設置

 三里塚事務庁は取香種畜場の事務所として建設されたもので、明治8年にその建設計画が持ち上がりました。建物の工事は入札によって業者が選定され、農馬・農牛舎は寺台村の黒河久兵衛が、穀物板倉を東京下谷の笠松松平が、牧農夫舎1棟を中沢村の林田権右衛門が落札しています。工事は悪天候に悩まされながらのものになりましたが、明治9年3月25日に完成した牧農夫舎を仮事務庁として業務が開始されました。その後、家畜などの移動が順次行われ、種畜場としての形が整うことになります。

三里塚事務庁

 

下総種畜場

 明治13(1880)年1月、下総牧羊場と取香種畜場が合併して下総種畜場と改称されました。この合併は日本における近代牧畜の先駆的立場としてより一層の発展を意図したものと言われています。また、この年の7月、「変則獣医術学則」が編さんされ、獣医生に対する実地教育が開始されます。

 明治14(1881)年4月に農商務省が設置されたことから、下総種畜場は内務省からその管轄下に移りますが、その年の6月30日には明治天皇の行幸(ぎょうこう)が行われました。その日程を辿ってみると、28日、皇居を出発した天皇はその日船橋に宿泊し、翌29日には佐倉道を下って成田に到着。新勝寺が行在所(あんざいしょ)にあてられました。30日に下総種畜場に入られた天皇は、両国分庁にて小休止をとられ、その後、牧場の景観をご覧になり、猪之頭土手と両国区字高田入で野点をされ、高堀本庁にて昼食をとられた。昼食後は、再び牧場を廻られ、競馬や野馬の捕込をご覧になり、三里塚分庁で小休止後、行在所に戻られたと記録されています。翌明治15年6月7日にも天皇の巡覧がわれており、下総種畜場が天皇家にとっても重要な施設であったことが伺い知れます。

 明治14年から15年にかけては牧場の一部が払い下げが行われ、明治18年6月には、下総種畜場は農商務省から宮内省に移管されることになります。翌19年には高堀出張所と改称され、さらに21年には印旛出張所と改称されます。その後、21年10月には宮内省下総御料牧場と称するようになり、こうして牧場経営は宮内省の手に委ねられることになります。

 

下総御料牧場

 宮内省に移管された牧場ですが、事務所が牧場の南に位置する両国区の高堀にあり、不便であるという理由から明治22年に牧場のほぼ中央に位置する三里塚に移動されます。また、牧場では経営の経費が帝室費の中の大きなウエートを占めるようになってしまったことから、牧場事業の一大改革を断行するに至ります。これまでの牧場経営は耕耘(こううん)を主とし、牧畜を客と考えて行われていましたが、両者の主客を入れ替え、独立採算制の導入を図り、牧場単体として経営を成り立たせようとの試みが行われたのでした。また、独立採算制の導入には、日本における牧畜事業の模範となる目的もあったものと考えられます。

 

明治末から昭和の下総御料牧場の様子

 大型農耕機械の導入や、高度に組織化された農場経営により、大きな成果を収めた下総御料牧場ですが、その後は規模縮小の一途を辿る事になります。

 明治44(1911)年には成田-多古間の軽便鉄道用敷地として八町二反あまりが千葉県に貸し付けられ、大正元年にも三里塚停車場側線用敷地として九畝(せ)などが貸し付けられました。大正11(1922)年には御料牧場官制が廃止された事により、宮内省下総牧場と改称され、同時に牧場用地もさらに縮小されることになります。翌12年には2044町歩が帝室林野局に移管され、残った牧場用地は1400町歩となり、三里塚と両国地区だけになってしまいます。

 昭和17(1942)年には再び下総御料牧場の名が復活します。この頃になると馬の繁殖事業が盛んとなり、種馬「トウルヌソル」や「ダイオライト」を父とする馬が競馬界において大活躍を果たしました。また最近、この当時のものと考えられる写真が市内より発見されたことにより、当時の牧場の様子の一端がわかり始めています。写真の多くは現在の三里塚地域で撮影されたものですが、当時の牧場の様子や、牧場関係者を窺い知ることのできる貴重な資料です。作業関係の写真を見てみると、広大な牧場内で馬を利用した耕耘などが行われていたことがわかります。

 この当時、近隣の農民の多くは人力による農作業を行っていたわけですからその規模の違いが余りにも違うことに驚かされます。さらに、これらの写真の中で最も興味深いのは、当時、日本では殆ど見ることは不可能であったろう外国製トラクターが写されていたことでした。これらトラクターの外観を比較してみると、2種類のトラクターが使用されていたことがわかります。1台はマコーミックディーリング社のT20型、もう1台はクレトラック社のW型です。両社はアメリカのトラクター製造の老舗であり、本国では今でも自走可能な車両が多数残されているようです。

トラクター(Cletrac社製W型)の試運転記念写真(栗原広徳氏所蔵)

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  下総御料牧場の終焉

 大型機械の導入などによる経営が行われていた下総御料牧場ですが、終戦後の昭和21(1946)年、牧場用地883町歩を一般に解放するため帝室林野局に移管します。この時移管された土地は、富里村十倉や遠山村駒井野が中心となりました。その後、昭和23年にも自作農創設特別措置法によって131町歩が農林省に移管され、残りの牧場用地は430町歩余りとなってしまいます。ちなみにこの面積は下総牧羊場・取香主畜場時代の10分の1となります。

 昭和24年には名称変更になった宮内庁の所轄下となり、馬・牛・羊・豚・鶏の飼育と耕作が続けられていましたが、昭和41(1966)年牧場を中心とする地域に新東京国際空港(現成田空港)の設置が閣議決定されたのを受け、翌42年には栃木県高根沢町に牧場移転が決定します。そして昭和48年8月18日の閉場式を以って、明治8年以来脈々と続いてきた牧場の歴史に幕が下ろされたのでした。

 かつての下総御料牧場は「桜の名所」として広く知られ、春には大勢の人々で大変な賑わいを見せたといわれています。これらの桜がいつ頃から盛んに植樹されたのか、その植樹について伝える資料が残されています。これは埴生郡小菅村 藤崎匠平が勧業寮取香主畜場宛てに明治9(1876)年に送った手紙で、その内容は三里塚に出店をしたいので土地を借り受けたいとの申し出でした。この中で藤崎は「往来者を大風や暑寒から守るために自費で道の両側に桜を植樹したい」と願い出ています。佐倉牧は、クヌギをはじめとする雑木が多く、しかも強盗や殺人が絶えない原野でしたが、そこに近代的牧場が開設されるにいたり、新しい集落が形成されつつある中で、これまでの暗いイメージを拭い去る手段として効果的な方法であったと考えられます。

 この願いが許可されたかどうかについては定かではありませんが、恐らくはこれをきっかけとして桜の植樹が進み、やがては「桜の名所」とまでいわれるようになったのではないでしょうか。

昭和10年前後の花見風景(栗原広徳氏所蔵)

 

 お問い合わせ

富里市教育委員会生涯学習課

電話: (中央公民館) 0476-92-1211 (社会教育班)0476-93-7641 (文化資源活用室) 0476-93-7641 (スポーツ振興室) 0476-92-1597

ファクス: (中央公民館/社会教育班/文化資源活用室) 0476-91-1020 (スポーツ振興室) 0476-93-9640