【松沢幾太郎】北村堰をひらいた

「長瀞の偉人は、みな婿だ」と村の人はいう。これは少し大げさかもしれないが、鈴木清音、井上庫八、松沢幾太郎等はいずれも大きな存在の人物であり、他村から入婿したところから村人が敬意をこめて生みだした「村語録」であるのだろう。

西郷村大淀からきた幾太郎(後年敬之と改名)は、長瀞小学校教員、長瀞役場収入役を経て明治四十三年から昭和二十一年まで、その間一期を他にゆずっただけで、じつに三十二年間長瀞村長の座にあった。

氏を語るに何よりも優先に大正九年の北村堰の功績をあげなければならない。村流にいえば「北村堰の水揚げ」である。この堰によって長瀞村の水田、特に慢性不作地帯だった北方水田は、ばく大な恩恵を受けることとなったが、計画された当時、世論は利害得失の思惑から賛成・反対の声入り乱れ、松沢村長宅では反対派の夜襲に備えて親族が詰番しなければならなかったと語り草が残っている。

北村堰計画は、長瀞村、西郷村、楯岡町の一町二村にわたる大工事で、予算は二十六万円で始められたが、完成時には五十万円になってしまい、関係者を大いに苦しめることとなった。一町二村の首長はそれぞれ私財を投じて責を負ったが、松沢家は、五十俵分の小作場田地を手離したという。

氏は、また、「べご村長」とあだ名がつくほど畜産に力を入れ、自らも種牛を飼って範を示している。松沢村長、昭和二十一年十二月十一日逝去。法名、顕徳院忠嶽良清居士。菩提寺は長瀞の禅会寺である。

氏の子息は、山形至誠堂病院をひらき、のち参議院議員となった松沢靖介である。