「社会における中心と周縁」内山 節さん講演録 について知っていることをぜひ教えてください

 

 

 

「社会における中心と周縁」

   と き 2023年10月7日(土曜日)                                                                                      

   ところ 根羽村 やまあいホール

   目 次 1,「根羽村からの報告」 根羽森林組合参事 今村 豊………1

       2,講演「社会における中心と周縁」哲学者 内山 節………8

       3,質問 1~4     ……………………………………………………28

 

主催 アヲハト会

 

1,根羽村からの報告   根羽森林組合参事 今村 豊

 

 

(1)はじめに

皆さんこんにちは、根羽村森林組合参事の今村豊と申します。よろしくお願いします。

今日は参事というよりも個人的見解が多いかも知れませんけれど、これからの根羽村をどのようにしたら良いのか、あるいは自分がどのようなことを考えているのかということを、かいつまんでお話したいと思います。

まず最初に、私は東京の新宿で1960年の生まれ、いま63歳です。これから私も高齢化する中で、チャレンジするべきことはたくさんあると思っています。今日は村長さんがお見えになっていますけれど非常にご理解のある村長さんで、ここにいていろいろなチャレンジができることも、森林組合の組合長イコール村長さんということで、みんなが気持ちを一つにして取り組んでいるからと思っています。

ここが初めてという方もいらっしゃいますので、根羽村はどんな特徴があるところなのかを申しあげます。

(2)根羽村と私

ここは、「根羽村トータル林業」ということで知られています。これを単純にいいますと、伐採して、製材加工をして販売する。それが1、2、3次産業ということで、全てに取り組む6次産業のことです。人口もわずか900人の小さな村ですけれど、そういった産業を立ち上げて頑張っているムラということで、林業界の中ではある程度知られています。今回の林業白書でも、長野の方で「おやきファーム」が取り上げられて頑張っていますが、根羽も頑張っている森林組合ということではある程度名が知られているところです。

私は最初、長野営林局の国有林におりました。それから長野県に25年くらい勤めて、その間に根羽村の役場に派遣ということで、この村で3年間を過ごしました。今日も小木曽英美さんがお見えですが、良いパートナーにも恵まれて楽しく仕事をしました。最後は長野県庁にいましたけれど49歳の時に、これからは「農業をやろう」と思ったのです。というのは、私は養子なので土、日曜日は農業。月曜から金曜は林業やっています。そういったことで「農林業 一次系男子」って自分では言っています。

そういったことで根羽村というところは非常に発展の要素があると思っています。

まず森林資源が充実しています。村内は約430世帯ですけれども全員が森林組合員、かつ山も国土調査が終わっているので一つ一つの山が全部わかっている。そういうことで森林資源を使って何かやろうという時に、根羽村というのは非常にやりやすいのです。

それからもう一つ、製材工場があります。製材工場というのは相手のある仕事なので非常に経営が難しいのです。「辞めたほうがいいのではないか」そんな声もあるくらい難しいのです。だけど製材工場を持っていることで、非常に森林組合の発展性があると思っています。

いま会場の後ろの方に動く木のおもちゃが置いてありますけれど、製材工場があることで村の人の労働力が投下され製品が生まれています。それを矢作川の下流域、特に安城市さんで上下流連携ということで動くおもちゃを持っていくと、動きや音が非常に驚かれます。

(3) 「森の民」の心

「農民」という言葉があります、だけど「森民」っていう言葉がないですよね。それで私は話の中の立ち位置を分かりやすくするために、「森の民」と言っています。なんで森の民かというと、森の民というのは、まず一番目に、森のことについて熟知しなくてはいけないと思っています。生態系についても、森林土壌とか森林水分学とかいろいろありますけれど、これらを熟知しなくてはいけないと思っています。

二番目は次世代にしっかりと森林を残さなくてはいけないですね。自分たちの山から木を搬出して使いますけど、その後に植栽などをして、ちゃんと次世代につなぐような森林資源を作らないといけないと思います。三番目は次世代に結びつくような人材です。森を愛し木を使うことを当たり前と考える人たちをつくらなくてはいけない。これらは自分の言葉で言うと「森の民の責務」と考えています。これをしっかりやることで「森の民」というのは語れるのだと思います。

森林組合では、森林認証とかCOC認証、第三者認証といいますけれど、適切な森林をつくって、適切な製品を出していることを第三者機関に認定してもらっています。村から出ていく材は森林認証材といいます。これは国際認証材ということで、どこでも通用するものです。この小さな根羽村でそれをきちっと守ってやっていける。これが極めて大切だと思っています。

また個人的なことを言いますと、私は山が好きなのです。山が好きな人は、何か自然に外で仕事をしたい。農業もそうなのですけども、自然と言った時に、必ず「労働」ということも思い出すのです。自然に対して何か働きかける、それも主体的に。どこかの組織の歯車になって「あれやってくれ、これやってくれ」って言うのではなくて、自分が山を見た時、農地や田んぼを見た時、草ぼうぼうの土手を見た時に自分がここにどうやって主体的に関わっていくのかが突きつけられる問題です。

これが農林業の特徴だと思うのです。「資本主義社会の中で労働をする」「自分の時間を商品として差し出して貨幣をいただく」。それはあります。でも農林業には、まずそこに主体性があります。技術・技能がそこにありますよね。自分の技術・技能でもって素晴らしい山も作れるし、素晴らしい作物もできる。それはどういうことかと言うと生産できるということです。プロデュースする、生み出すことができる。自分が主体性をもって取り組むことで自分のオリジナルの山作りもできるし、農産物もできる。そこに生産というのが加わりますよね。

都市部の方はどちらかと言うと消費者です、きょうびお休みになると、皆はどこに行きたいかというと田舎に行きたいですよね、こういう自然のところへ。そこに私たちは農林業をして住んでいるわけです。こういう所に住んだ時に、誰がその皆さんを迎え入れてくれるのか、あるいはどういう人に会えるのか、人生が豊かでハッピーになるのかということです。

私は農林業をやっています。そこで自分の技術・技能を持って生産しています。山から木を切り出し、農業ではお米とアスパラと市田柿を作っています。

生産に携わって、そこに技術があり、そして技能があるのです。

(4)美しい景観は、住む人の心

さっき草刈りの話をしましたけど、根羽から名古屋へ向かっていくと稲武町(豊田市の一部)を通っていきます。そこに非常にきれいな田んぼがあります。植えたところの直線がすごく綺麗で、土手は草刈りができていてきれいなところがあります。ああいう景色を見た時に、そこに住んでいる人たちの気持ちが「形になって現れているな」と思うのです。それはなぜかと言うと、地域を愛する心だと思うのです。特に農林業の経営に携わっている者にとっては、やらなくてはならない必然性があるのだけれど、それをしっかり自分の主体性を持って技術・技能でやってゆく。それを先ほどの山の話ではないですけれど、次世代に伝えていくことだと思います。

例えば美しい景観があった時に、それを維持しようと思いますよね。だけど皆が見放してしまったら、やっぱり大切にしなくなってしまうと思うのです。単純にゴミだらけのとこに自分が一つごみをポイと捨ててもあまり気にならないかもしれません。けれども、ものすごくきれいな所でゴミをポイってしないですよね。それ何かって言うと、やはり地域を「大切にする心」だと思うのです。

山を見て大切にする。農業を大切にする。林業を大切にする。振り返れば、それは自分を大切にするということですよね。自分を大切にすることが大事だと思います。自分を大切にすることとは何かというと主体性を持った自分の思想です。

だから、皆さんがこういうふうにやったからやる。やらなければいけない。やったから真似するのではなく、自分が山を見た時に、この山はこうじゃない、こうなったらいけないなあ、だからこうしよう。この草ぼうぼうのところは見づらいって言うか……、まず「何かやろう」ですよね。そういう気持ちを持って、主体性を持って取り組んでいることが地域を変えてゆくと思います。

かならず地域の人の心が、まず景観に現れると思います。それは自分が草刈りをやっているからよくわかるのです。今年は夏が暑くて草がボーボーになるのが早いですね。やっている人はわかっていると思うのです。けど手を抜くと、あっという間にボーボーですよね。近所を見たときボーボーなのは俺の家だけになります。そうなれば急いで草刈りをやりますよね。

そういうことは、やはり地域っていうものは人々の気持ちで成り立っている。あるいは景観などというのは最もそう思うのですけれど、そこに住んでいる人たちの気持ちが「形に現れる」のです。やっている一人一人というのは、主体性を持ってやっていますよね。別に連絡取ってやっているわけじゃない。それが地域文化だと思うのです。

(5)「労働」を忘れた人

結という言葉がありますけれど、結という考え方は「そんなら、みんなでやればいいじゃないか」という考え方ですよね。そうすると一人だったら絶対やらないことが、10人、20人集まれば鼻歌まじりでできてしまう。苦しいことも皆で克服して出来るということです。こういったことが里山あるいは農林業、あるいはこういう地域にはあるのです。

これは、すごく潜在的なヒントで、実は都市部の人たちは「労働を忘れちゃったのかな」と時々思います。普段スマホとかパソコン打っているわけです。労働をできるだけ避けます。賢い人は投資なんかでお金を稼ぐなどしますよね。労働なんか「汗水たらして、お金を稼ぐことに意味があるか」と思っている人はたくさんいると思います。

どうなのですかね…そういった労働を海外の安い労働力へ求めたりしています。肝心かなめの労働ってなにか、精巧なものが作れたのが作れなくなっていく。そういう文化がどっかへ行っちゃった。それは労働を軽視しているのではないかと私は思います。というのは自分が農林業をやっているから、労働を自然に対して投下しているからです。

自分の主体性が技術・技能を持って行っているから、余計そう思うのです。

(6)「原体験」と先生

ちょっと話題を変えますけど、「わくわくネイチャースクール」という、安城市の子どもさんたちを農家民泊することを7,8年やりました。やっていることは魚つかみ、五平餅づくり、間伐体験などです。あと農家民泊は8軒くらいのとこへ7~8人がお泊りをして、それぞれの農家の方のメニューによってやっていました。すごく皆さん楽しんでくれました。

それが最初は年に一回だったのが、6、7年目には年4回やったのです。それは一泊二日、参加者は50人で子ども達だけの参加なのです。口コミでお母さんに伝わって、お母さんから順次仲間に伝わって回数が増えたのです。だんだん参加したくても参加できなくなりました。子どもさん達が「原体験」という素晴らしいものを求めていて、実際に心を打たれたのですね、それをお母さんに喋っているのです。「農家民泊に行った時に楽しかったよ」「五右衛門風呂に入ったよ」とか。「夜空がきれいだった」とか「友達と一緒に川遊びをした」とか話しているのです。

そういう機会というのは、考えてみればどこが、誰がやればいいのかということですね。うちらは森林組合として、森の民として、次世代を創るものとして、次世代の人に何を与えたらいいか…それを感じさせたいのです。伝えると言うか、むしろそこで子どもたちが何かを掴んで…遊びの中で掴んでいく。そこの場面を森の民として与えていきたいのです。

その時に私たち森の民だけではできないことがあります。例えばお料理のことはできない、お魚のことはできない、そういう時にどうしようかと思ったら先生になれる人がいました。「田舎の先生」という言葉を使っているのですが、田舎には先生がいますよね。魚を釣るのが得意であったり、猟友会入っていて獲物を仕留めるのが得意であったりする人がいます。おばちゃんは郷土料理が得意だったりしますよね。そういう方々がいっぱいいます。そういう方が埋もれているのです。そういう人たちは「私は先生です」なんて手をあげたりしません。だから素晴らしい技術、技能を持っていても、そのままヘタをすると埋れちゃうのです。それに気が付いて、誰かがまとめて、先生として、子どもたちを迎えてあげる。そういう場面を作ることが絶対に必要だと思います。

黙っていてもわかるように、1回が4回になったように、子ども達はそういうことを求めています。むしろそういう機会や場面を作れるのは、最前線にいる「森の民である」という自負があります。なので、自分達はやらざるを得ないということです。

(7)矢作川の上下流連携

それから関連して矢作川の上下流連携のことを話します。

先ほどの動くおもちゃの話しがあります。これは製材工場があるからできるのです。これを作れるのは森の民の私たちだけです。他のとこでは作れません。それはオリジナルということもあるのですけれど、製材工場で部材を使って作れます。 

そこで出来たものをどこで示せばいいのか、例えば根羽村だけでやっていたら知ってもらえるのはここの人だけです。だけど、これを例えば豊田市の駅前広場とかスカイツリーの広場なんかへ持っていくと、ものすごく人が集まって来ます。おもちゃと合わせてブランコを置く、オセロだとか木のアイテムを一緒に置いたりします。

体験では木のペンダントとか、表札作りだとか、弓矢作りだとか箱作りをやります。ものすごく大勢の人が来てくれます。コロナの前は年間50回行きました。考えてみると分かるのですが土日がないのです。これは営業で50回、土日に行ったのです。それは要望の申し出を断らなかったから50回になってしまったのです。

それだけ潜在需要があるのです。それでもお金について「いくらください」なんて言ったことはないのです。最初は自腹でやっていました。そのうちに向こうから出してくれるようになってきました。そういう催しをやってくれる機会が少ないからです。

それでチームを作って木のチーム、食のチーム。しかも出てって、みんなにこういう幸せな空間と豊かな時間を提供します。それを自分の言葉ではプレース・メイキングと言っています。これは「魅力な場づくり」です。木のアイテムであることから、そこが非常に輝く魅力的な場になる。それが出来るのは我々森の民です。そういうことがあると下流の方に感謝されます。そして何回も「来てください」って言われています。だから50回になりました。

それだったら、こういう森の民が上流に居てくれた方が「いいよ」となります。こういう人たちがいてくれたら、子どもたちに何か教えてくれるし、下流域まで行って楽しい交流空間を生み出してくれる。それはいいことですね。それだったら、どの自治体にも交付されている森林環境譲与税を使ってもいいとなります。だから、まず自分たちが先行して、そういう素敵な場面とか幸せな時間を提供して、その対価として「欲しい」とは言わずに、これは「もう、出してあげなきゃ…」って言わせるくらいの感じで続けてきました。それがいいと思います。

私はいろいろなことをやる時に、実績をつくってものを言いたいタイプなのです。ただ先に必要なので、「お金を下さい」って言っても説得力はないのです。だから最初に自分たちが動いて実績を作って、人びとから感謝された上で、「お金かな…」というふうに考えています。そして自分たちの熱い心―自分は「有志主義」と言いますけど―、役だからやっているのではなくて好きでやっている人、何があっても雨が降っても、槍が降ってもやりますね。そういう人が出てゆきます。それでいいのだと思います。それは、それで「やりすぎだろ、何でそこまでやるの」と言われるくらいやって、そうしたら、「手を差し伸べてやろうかな」とか、「あれだけやっているのだから」とか、その熱いハートに触れて、自分がフックになって「一緒にやってくれないかな…」と声を掛けます。

自分が強く頑張っていたら、次の担い手が下から出てこられません。出来れば譲ればいいですよね。方法論は次の方に任せる。よく言うのは、自分は初代からいろいろと下地を作ったから、次世代の人たちに頼む。方法論は任せるのです。そのかわり「ヘルプ」と言われたらいつでも行く。その方法論までワーワー自分たちが言ったら、次世代の人は面白くないですよね。だから次世代の人は次世代の人達で、うちらの下地を踏み台にして「やってくれよ」という文化みたいなものを作っていけばいいのかなと思います。

それであとよく使う言葉は「意思の表明」ですね。苦しい時には「苦しい」という、助けてほしい時には「助けてほしい」という、それで後は相手に任せる。それは自分の信用、信頼ですよね。実績をつくってものを言っているのだったら、「あの人なら、そうだろうな」と思ってくれるじゃないですか。そこですよね。

自分の生き様っていうのは、ガチャガチャ動いていろんなラインが見えてくると思うのです。でも、行動しないと次のラインが見えません。ガチャガチャ動いてラインが見えたら次のラインが見えてくる。そういう感じだと思うのです。そういう人と人との化学反応が起きて、火花が散って、新しい何かが生まれていくという、そんな感じだと思います。

(8)自由人の受け皿

特に私たちは矢作川の流域に根羽森林組合。隣が豊田森林組合、東の方に岡崎森林組合、西の方に恵南森林組合があります。この四つの森林組合が連携して、次の人材確保を「どのようにしようかな」と言って、一緒に考えたりしているのです。

必要なのは、これからどうしたら出来るかということです。過去の事をどうのこうの言うのではなく、「これからどうしたらいいか」ということについてブレーンストーミングをやって、いろんなアイディアを出して、「どういう順番でいくの」と言った方が良いと思っています。過去の事が、どうだったのこうなったのと言われても済んだことです。エネルギーをかけるのは「これからどうするの」「誰が主体性をはって、これから勝負するの」そういうことを明確にしています。

でも熱いやつがやらなきゃいけないから、まず「やってみようよ」と言って、実績を作って、それで助けてもらう。そういうものだと思います。そういう心が、やっぱし受け皿としては、里山の山村のこういったところが「自由人の受け皿」と思います。

なぜかと言ったら、ここでは村長との距離が近いですから、村長が「うん」と言ったらできることがあります。遊休農地もある、山を手放したい人もいる。人口が900人を切っています。1平方キロメートル当たり一人しかいないのです。安城市は2000人くらいいます、すごいですよね。そういう時に熱い仲間が10人、20人来たら、この農地を使って一人1ヘクタールあげるから「何かを作ってみよう」とか、そこの山を見たら「花の山にしよう」とか、「マウンテンバイクのコースをつくろう」とか、「サウナを入れて」とか……そういう話になります。

そう言ったことでブレーンストーミングして、この里山を盛り上げたらいいのかみんなで考えて主体性をもって、事実を伝えながら「一生懸命やる」って言うのが、この根羽村の将来かなと思っています。

本当に根羽村が自分は好きなのです。いろいろな人間関係はもちろんありますけど、素晴らしい所だと自分は思っています。一言でいうと、この根羽村を愛しているのですね。そういう愛のあるところから何かが生まれると思っています。皆さん、自分の地域でしっかり手を取り合って、その精神で次の未来に向かってすすめていただければと思います。

ありがとうございました。(拍手)

 

 

 

 

2,講演「社会における中心と周縁」 哲学者 内山 節 

1,はじめに

内山です。考えてみたら根羽村へお訪ねするのは3回目だと思うのです。ただ前回から35年くらい経っているなかで、山の木を見ても前に見た時には戦後に植えた木で、まだ売るような木がほとんど無かったのですが、いつの間にか別格になったという気持ちでやってきました。いま今村さんが新宿の生まれとおっしゃっていましたけれど、僕は新宿から小田急線に乗って、ちょっと入った世田谷区の生まれです。

僕の場合は偶然なのですけれど、50年ちょっと前に群馬県の上野村に魚釣りに行っていたのですがこの村が気に入り、それ以降は上野村に居たり、東京に居たりという生活を続けています。

上野村ではほんの少し山を持っていて、畑もちょっとある暮らしです。根羽村と同じなのは、上野村は95%が森林です。でも根羽と違うのは、田という歴史が無いことです。そこで何とか木を利用して暮らしてゆける村が出来ないか、村をあげて考えてきた山村でもあります。

やはり根羽と同じように森林組合が上野村森林組合のままです。そのために村の考え方でなんでもできるという利点があります。また同じように森林組合が製材工場を持っていますので製材もしています。しかし実際に上野村では、山から出してきた木、ここよりもっと急峻なので切り捨て間伐をおこなうと危なくてしょうがない。そういう場所ですから、切った間伐材は全部里へ出すようにしています。このように手入れのために木を切っていきますから、出してきた木のだいたい60%くらいは利用できない。材として使えないのです。

それと上野村は天然林の比率が高く、統計的に言いますと70%くらいが天然林です。このために紅葉が綺麗と言う点ではいいのですが、広葉樹の森もやっぱり間伐を入れる方が元気になります。広葉樹ですから枝も多い、そんなことがあり利用できない60%をペレットにして、冬の暖房はペレットストーブを使う。そんな形になっています。

しかしペレットとしての利用では、その内60%を発電用に使っています。最終的には地域のエネルギーを再生可能エネルギーにと言うよりも、地域エネルギーで暮らすようにしたいという希望があります。地域エネルギーで暮らすというのは、昔の生活に戻るということですね。つまり昔の村の人たちは、代替エネルギーって薪ですから地域エネルギーで暮らしていました。その時代に戻したいという希望があります。

でも「薪だけあればいい」という時代ではなくなってしまいました。ですから、それをペレットにして発電したり、あるいは暖房に使ったり、あと農業用の施設なんかでも使っています。そんな形にして最終的には川で小水力発電がうまくいけば、地域エネルギー100%でなんとか賄えるという感じなのです。けれども川の権利が村にありませんので国交省との交渉が難航しています。今のとこはまだ自給まで行ってない段階です。ただ最終的には昔の形の「地域エネルギーで暮らす村」という方向に持っていきたいという努力をしています。

また、うちの村の出荷品として一番出荷金額が多いのは椎茸です。だいたい椎茸だけで3億円くらいを売っています。広葉樹が多いので、広葉樹の間伐をした時にコナラとかミズナラが出てきます。それをおがくず化して椎茸栽培に使うという気持ちで始めたのですけれど、今はそれがうまくいってないのです。

なぜうまくいかないかと言うと福島の原発事故です。それで群馬県の僕の村でも東京くらいの放射線量になったのです。けれど放射能というのが本当に厄介なのは、場所によって随分違い、同じ村の中でも違うのです。「そこの窪は高い」とか言われる。窪が全部高いわけでは無くて場所によって違いがあります。そうすると場所によっては放射線量の高い木も出てきてしまうのです。きのこは放射能を吸収しますから、間違って線量の高いきのこを出してしまったら、これは村の信用問題に関わってきます。そこで残念ながら村の木は使っていないというのが現状です。

最近の調査ではほとんどが使える感じになっているのですけれど、まだ100%ではないので、そういう木が混じると大変なのです。ですから原木は九州から入れていて、九州から持ってきた原木を村でおがくずにしてキノコを栽培する。せっかく村を完全な自給の形で作ったのに、原発のせいでそのような事もしなくてはならなくなったということです。

(2) 中心はどこにあるのか

―中心とは特定分野の中心に過ぎない―

そんなところに私は片足だけ住んでいる感じです。根羽に来ても特別山奥に来たという感じもない。また先ほどの今村さんの話をお聞きしても、うちの村でも人口の1/4くらいはI ターンの人達です。だから普通にそういう時代になってきたという気がしています。

ただ私が初めて上野村に行った頃に使われていた言葉で、「群馬のチベット 上野村」というのがあり、そのポスターがあったのです。いつのまにか使わなくなったのですけれど、これは上野村がチベットでなくなったからではなくて、この標語はチベットの人に対して大変失礼だということに気がついたのですね。ですから、こういうことは言わない、使わなくなったのです。だから「群馬のチベット 上野村」という時代は、やはり東京が中心でして、上野村というのは外れも外れと言う、そういう感じでイメージされていたと思うのです。

実際にこの社会を見ていく時に、「中心と周縁」という言い方があります。それはどこかに中心があって、どこかに周縁があるということです。ところが今ふと気が付いてみると、例えば、確かに政治の中心となればやはりそれは東京でしょう。なんと言ったって東京の財源と言うか、日本の財源のすべてが東京に集まっています。それが地方へ配られるような仕組みになっているわけですから「そりゃあ、政治の中心は東京でしょう」ということは言えるかなと思います。それから経済の中心といえば、東京の大手町周辺なんかは大企業の本店がそろっていますから、中心ということも言えるかもしれません。

またブランド品を買いたいとなれば銀座とか原宿が中心でしょう。確かにあそこに行けばブランド店がずらっと並んでいる感じです。ちなみに僕の大学にいた大学院の学生さんが、ある有名なデパートでブランド品の仕入部長をやっていて、そのうちに、そういう勤めが嫌になって大学院に来たという人だったのです。彼の話によりますと、ブランド品というのは原価が定価の5%なのだそうです。10%ぐらいの物を作っているブランドメーカーは、あそこは「良心的なものをつくっているなぁ」と言われる世界なのだそうです。彼に言わせると10万円のバッグを買ったら5000円のバッグを買ったと思えば、大体原価が合っているという世界だそうです。しかしそういう物を売っている中心といえば銀座だったり原宿だったりということになります。

自動車の中心といえばある意味では豊田市なのかもしれないし、日本にいくつかそういう場所があると言えます。これは何かと言いますと、中心という考え方は何を基準として中心とみるかによって変わってくるということです。

(3) 明治以降の近代化と政治・経済の役割の拡大

①中心も周縁も両方危機

日本の場合には明治以降になってきますと、全てを東京に集積していくような時代が進みました。あるいは地方で言えば県庁所在地にいろいろなものが集積されてきました。そういう方向に向かっていたので、結局市町村というのは周縁の方に回されていくという時代が進んだと思ってよいということです。ところが今、気がついてみると中心も周縁も両方危機になってしまったという感じです。

それで周縁の方は確かに過疎化もしていますし、村民の平均所得とかデーターから見ればいろいろと大きな問題を持っているという言い方が出来ます。ところが、その中心だと思っていた場所で、先ほど今村さんがおっしゃったように、自分の仕事に生きがいが見出せない、本当に自分の仕事というのが時間の消費みたいになってしまっていて、「何のためにこんなことをやっているのかよく分からない」、そういう仕事が広がってきています。

また地域社会は崩壊していますから そういう中で自分がそこに住んでいる理由も見いだせないというのが現状です。実際、多くの人というのは、例えばある年に自分の家を買おう―東京ですと圧倒的にマンションが多いですけど―その時に自分の収入を考えて、払えるローンに合わせて建物を買うという形になっています。別にそこに住みたかったわけでもないし、何かその地域に魅力を感じたわけでもない。単にお金の算段の結果「ここに住むことになりました」というだけの話と言えます。そうするとそこに住んでいる人達はバラバラになってしまい、それぞれが孤立しています。だから中心だと思ったところが実は危機の中心にだんだん変わってきてしまったのです。

一方において周縁は、今までの基準でいうならば周縁もまた危機といえます。そのように「どちらも一つの時代によって、危機を迎えた」というのが今の時代とみることもできます。

 

②地域社会が作っている安心感

ところが先ほども言ったように、中心というのは「何を基準にして中心としてみるか」ということによって変わってくるということです。私も東京にいるより上野村にいる方が圧倒的に楽しいという感じがあるわけです。それは上野村にいると東京にはないような安心感があって、それは自然が豊かですから自然が提供してくれるものもたくさんある。それから困ったことがあっても隣に行けば何とかなるみたいな社会です。そういう安心感もあるのです。

そのような時に上野村というのはコンビニエンストアがないのです。一番近いコンビニ行こうとすると、僕の家だと車で40分位かかります。そんな時間をかけて行く人はいないという感じですね。

けっこうお子さんなんかは「コンビニ的なものを欲しい」という人がいるのです。つまり明るい感じで、なにかセンスの良いものを―本当にあるかどうか知りませんけど―売っているような気がする。だからうちの村にもコンビニがほしいというお子さんがいて、それは子どもさんにそういう気持ちを持つ人がいても、別にそれはそれでいいと思います。だから僕はコンビニでなくてもいいけど、ちょっと夜遅くても開いていて、明るくて、それで子どもたちが寄っていいようなお店って一軒くらい作ってもいいかなと思ったのです。

けれど村の人が言うには、村にはやっぱり「コンビニはいらない」といいます。理由は「隣の家がコンビニだから」ということなのです。確かにそうで、夜中に醤油がなくなっても隣に行けば何とかなってしまうのです。ですから考えたら村中がコンビニのような状態のなかに、僕は住んでいるということも言えるのですね。つまりそういう地域社会が作っている安心感って言いますか、それはやっぱり格別なものがあるという気がいたします。

そういう事を基準にして物事を考えていくと、むしろ中心というのは上野村とか根羽村とか、そういうところが中心になってくるわけで、むしろ東京というのは周縁。そういう「安心感が全くない場所」ということを考えることができるのです。

③田舎でもスマホ決済

だから東京っていうのは本当に「全てお金で決済してゆく場所」っていう感じなのです。最近、僕も半分は東京に住んでいるのですが、時々よくわかんないことが沢山あります。というのはコンビニとかスーパーとか言っても、最近は現金が使えない店が結構できています。すべて「カード決済でお願いします」という。しかもセルフ決済になってきました。

田舎でもそういう所があります。昨日は用事があって伊那市にいたのです。

伊那市に着いて伊那市駅の中に小さい店があるのですけど、そこへ飲み物を買おうと思って行ったら、なんとセルフ決済で「現金は使えません」っていうのです。カードしか使えないというので「いや~、伊那市も進んでいるな」と感じたのです。これからは田舎もそうなるかもしれません。しかも食堂に行ったらメニューがない。それでテーブルの上にQR コードが貼ってあってどうするのだと思ったら、スマホでQR コードを撮るとスマホの中にメニューが出てきてそれで注文をする。するとスマホから直接厨房にオーダーが行く。お金を払う時には、そのスマホで決済のボタンを押し自分でセルフで払ってゆく。

そうすると店へ入ってから出るまで誰とも口をきかないという不気味な食堂が出来ているのです。これになんとか僕も対応できますけれど、これ「高齢者いじめ」じゃないかという気がするくらいなのです。

(4) 中心の危機、周縁の危機

つまりそのような世界と根羽のような山奥の村の世界、どこに中心の基準を置くのかによって話は変わってしまうわけです。今はそのことに人々が気づき始めた時代でもあるといえます。自然と共に生きようとすればこちらが中心ですし、コミュニティや共同体を中心に生きようとすれば、やっぱりこちらが中心。それから人々がいろいろな技を持っている社会ということになれば、やっぱりこちらが中心です。

ですから今までは政治とかいわゆる経済ですとかそういうものを基準にしてみていくと、東京が中心だけれど、違う基準に当てはめてみると東京というのは単なる周縁にすぎないということに気がつき始めた人たちが、いろいろな模索をしている気がいたします。だから社会には様々な中心と様々な周縁があるというのでいいのだと思うのです。

ですから東京は政治・経済の中心だけどそれは構わない。だけどそれはそれで、価値基準は一つではないので、違う中心がまたこの社会にはおそらくいっぱいある。そういうようなものを再発見しながら、もう一度中心と周縁がどうつながりを作り直すかということを検討しなくてはいけないという気がしています。

ですから、この矢作川流域の上下流の交流というのは、日本ではそういう交流としては古くから行われているわけです。けれど、この矢作川における自然と人間の世界という点では、明らかにこっち(根羽村)が中心である。しかし大きな市場経済を持つことになると下流地域に中心があるわけです。そういうところが、お互いの中心と周縁の関係を見つめ合いながら、どういうつながりを作っていった時に、両方が無いものを補うことができるのか、そう考えていけばいいのだろうと思います。

(5)みえなくなっていた分野の中心を再発見しようとする動き。

 ―フランスのムラから考える―

①    パリは面白いが……

僕は日本との比較地にフランスを使ってきたのです。フランスにちゃんと住んだことはないのですけれど、延べにしたら20~30回行った気がするのです。やはり、どこの国に行っても同じなのですが、ある意味で一番つまらないのは首都なのです。

ですからフランスでいったらパリが一番つまらないのです。ただ、買い物をするのだったら、それは「パリは便利ですよ」っていう言い方ができるのです。それからパリの場合にはルーブル美術館をはじめとして美術館なんかが揃っていますから、絵が好きでそういうのを見に行きたいと言うのだったら、やっぱり「パリも悪くないのですよ」と言えるのです。けれど「人間たちが暮らす里」と言う見方をしてゆくと、決してパリは面白い街ではないと思います。

②    人間らしく生きられる場所

その点では田舎に行くと、フランスにも「いいなあ…」と感じる村がいっぱいあります。それで今フランスの村ってどうなっているかと言いますと、すでに20年くらい前の段階で住んでいる人の少なくても半分は元都市の人、つまり移住者ということです。多い所だと80%くらいが移住者ですね。はっきり言うと移住者だらけなのです。

ですから田舎へ行って、僕らはよく分からないのでそこに人がいると「村の人だ」って勝手に思いこむのです。けれど、ちょっと話をしていると、実は5年前まではパリにいたとか、3年前にどこにいたとかですね。そのような話がいっぱいあって、本当に移住が当たり前の時代という感じになっています。

そこに来た人たちに「なんで、こんなところに来たの」って質問すると、皆さん同じような答えするのですけど、「人間らしく生きられる場所を探して、ここへ来た」と言います。人間らしく生きられるとは「どういうことか」と質問すると、そういう所に来る人ですから、おっしゃるのは「自然があってこそ人間らしく生きることができる」と、自然がない世界では人間らしく生きることができないという言い方をしています。

③    小さな村が多い

それからもう一つ、皆さんおっしゃるのは「小さい村がいい」という。実はフランスというのは本当に小さい村が多いのです。フランスは人口で言うと6800万人くらいですから、大雑把に言うと日本の半分くらいです。そこの日本の半分くらいの所に36000くらいの市町村があるのです。日本は今1700くらいの市町村だと思いますから、そこに36000あるということは、日本なら70000くらいの市町村があるという感じになります。日本の感覚で各村へ行くと、一集落一村という感じです。だから集落ごとに独立した村があるという感じです。

その中で僕の知っている範囲でいうと、一番小さかったのは人口5人の村があって、そこは一家族が住んでいてお父さんが村長です。その家族が一緒に住んでいるという誠に小さい村がありましたけど、それでも独立した村なのです。そこで話を聞いたのですけれど、普通の村は一つの集落くらいで村が出来ていて、そこの真ん中には役場があって昔の教会があったりする場合も多いのです。

昔の教会というのは、フランスでは圧倒的多数は無宗教化しているのです。フランス人に言わせると、ここは本来カトリックの国なのですが真面目なクリスチャンというのはせいぜい人口の5%と言っていいのです。ほとんどの人は無宗教という感じです。ですから教会はあるけど用が無くなっているので、だいたい村のコミュニティセンターに作り変えられています。一応祭壇があって、中に入ってゆくと十字架がかかっているのですけど、NPO の人たちが管理する地域コミュニティセンターみたいな感じで利用されているところが圧倒的に多いのです。

 

④    村役場を支えるNPO

そういう役場や昔は教会だったところがあって、一つの村を形成するのですけれど、人口で言うと50人とか100人。300人くらいになると「大きいですね」という感じなのです。

そうするとその人口で行政を全部やっていくというのは、当然ながら大変なわけです。そういう村に行きますと村長さんがいて、副村長さん―村の権限で何人おいても構わないので―が一人の村もあるし、村によっては担当ごとに5人のところもあります。

だけど職員さんは大体一人しかいません。役場に行くとぽつんと女の人が座っている感じです。この人は証明書の発行とかいろいろあります。そういうものはやっぱりNPO に任すわけにもいかないので、職員さんがやっている。でもほかの村の業務というのは、全部村民がNPO を作って請け負っているのです。だから村民も結構忙しくて、特に60代の人が忙しい。というのは60代というのは、体は元気だけどリタイアをしている場合が多いのです。

⑤    60歳になったら農業をやめる

フランスで農民の方から話を聞いていると、「農業大好き」って言う気がするのですが、60歳になるとばたって辞めちゃうのです。年金がもらえるようになると「さあ辞めた」ということで年金生活に移ってしまいます。僕にはあの感覚だけはよくわからないのです。いやいや農業をやっていたから「60歳で辞める」というのは分かるのですけど 、すごく好きなのです。それでも60になるとピタッと辞める人が多くいて、そうすると元気で暇な人がいっぱいいるわけです。その人たちがNPO をいくつも兼業しながら、地域行政をやっているという…そんな感じです。それに対して役場っていうのは必要経費だけ補助金を出すという感じです。その補助金も聞いてみると、うちは年間10万円もらっているとか年間30万円もらっているとか、だいたいそんなものなので本当に必要経費だけという感じなのです。

その人たちが手分けしていろいろなことをやっています。だから道路管理NPOなんていうのもあるし、村の長期計画をつくる NPOとか、ありとあらゆる NPO があって、学校を管理するNPO、これが日本で言えば教育委員会のような役割を果たしている感じです。

村長さんは何をやっているという話になると、村長さんはむしろNPO の人たちがちゃんとトラブルを起こさずに仕事をしているかどうかをしっかり見ている感じです。もし、ある NPO がうまくいかないと是正勧告をしたり、いよいよ駄目だということになれば委託先を変えるとか…そういうことになるわけです。

⑥    村の役割

だから最終的には村は長期計画を作ったり、いろいろな計画は作りますけど実際に実行しているのは役場職員ではない。それが向こうの実態なのです。ですから「大変忙しい」と言います。ところが移住した人にとってはそれが評判を良くしています。つまりここに来ると「自分たちがちゃんと地域を作っていることを実感できる」「そういう役割がある」と言うのです。

それがパリみたいな大きなところにいると、自分なんか居てもいなくても同じ社会になっている。ここにいると本当に私がこれをやっているからこそ「地域が動いている」という、そういうことが実感できるというのです。そういう小さい村に人が移住してくる。だから「自然があるところ」、そしてもう一つは「きちっと、みんなが役割を持ちながら地域を作っていける場所」、その二つが人間らしく生きるための必要な要素だという言い方を向こうの方はよくされるのです。

⑦    村長や議員に経費がかからない。

ちなみに向こうにいて困っちゃうのは村長さんと副村長さん、あと収入役さんと議会の議員さん、全てが無給なのです。日本はどうなっていると聞くので、いや「日本はちゃんと給料が出ているよ」と言うと、「何で村長なんかに給料を出すのだ」って言われ、いや「歴史が違うのだ」とか言ってごまかすしかないのです。

そういう仕組みなので副村長が何人いてもいいのです。必要だと思って5人おいても構わないし、ゼロにしたって構わないのです。議員さんの議員定数も勝手に決めていいのです。どっちみち月給を払っていないですから。それから日本の議員さんの場合「一年に一回くらい視察に行って…」というようなことがあるけど、それも一切なし。視察したければ「自分で行け」ということなのです。だから経費が全然かからないので、議員さんを50人の村で10人つくってもいいし。場合によったら50人全員議員にしちゃっていいのです。

そういう仕組みで成り立っているので、村長さんも定年退職世代の人が村長さんをやっていると一日中村長をやっている感じです。村長さんって、ちょっと言葉が悪いですけど野良犬みたいです。一日中、村の中をほっつき歩いているのです。野良犬が歩いているみたいな感じで、人々が固まって話をしていると、気がつくと裏に村長が立って何が必要なのか話を聞いているわけです。悪く言うとスパイをしているみたいなものです。定年世代の人だと、そういう感じで一日中野良犬をやっている感じになるのです。

⑧    現役世代の村長は

 でも選挙で選ばれますので、まだ現役世代の人が村長になっているケースが沢山あります。その人は村長として給料が出てないですから、ある時、同じ歳くらいの人がいたので、しつこく「本当に一銭も出ないのか」と聞きましたら、実は「少し出ています」と言うので、「いくらですか」って聞きましたら「年間36000円」とか言っていました。村長のガソリン代だなという感じです。

けれどもそういう感じでやっていますから、昼間は自分の仕事をするわけですね。そうすると夕方6時位に村長室に顔を出して、その日にやらなければいけない書類の確認とかをする。それで家に帰ってご飯を食べ、まだやらなくてはいけない書類の確認とかするので、もういっぺん夜9時頃に役場に来て残業のようなことをしています。後は土・日でもやっているという、そんな感じでやっていました。やっぱり村長ですから村長がサインしなければ動かないものっていっぱいあるのですね。ですから現役世代ですと、そういう忙しい村長になります。

実はヨーロッパでは、村長さんとか議員さんに給料が出ることはないのです。―ドイツだけが例外で収入役さんだけ給料が出ています―だから、向こうではそれが当たり前だと思っているので「日本では出ているよ」って言うと、「何で」って聞かれて、そんなこと俺に聞かれても困るよという…そういう感じです。

やっぱりそういうものを、ある意味では利点にしながら小さな村の側に中心がある。逆にそういう基準で考えていくならばパリとかマルセイユなどの大都市は、むしろ周辺である。そういう感じに思う人たちが世界的に増えてきたのが、現代の社会と言っても良いということです。

(6)さまざまな自然との付き合いがある

そういう中で日本の社会っていうのは、やはり欧米社会とは違う特色があります。一つは何かと言いますと、やっぱりヨーロッパの社会って社会というのは、生きている人間が作っているのが社会なのですね。だから社会の構成メンバーが「生きている人間だけ」という社会を作っていて、社会契約という考えが成立するのです。上手くいくかどうかは別にして生きている人間同士がよく話し合って自分たちで契約する。あるいはルールを作る。それを実行すれば社会が出来るということなのです。皆で話し合って一つのルールを作るのは大変ですけど生きている人間だけという社会なのです。

ところが日本の場合には、社会の構成メンバーというのは人間だけではありません。自然と人間と両方が構成メンバーなのです。ですから村の入り口はだいたい人間のいない所にあって、そういう場所が村の入り口なのです。なぜなら日本の村は自然と人間が一緒になって作っている村だからです。

それに対してヨーロッパの村というのは、小さい集落でも集落自体は一か所に固まっているという作り方をしていて、その集落の入り口に、「○○村の入口」なんていう看板があったりします。その外側は農地があったり自然空間だったりするわけです。外の方は村じゃないのですね、自然の世界にすぎないです。

日本の場合にはあくまで自然と人間で村を作っている、あるいは社会をつくっているという社会観の違いがあるということです。だから日本の自治はめんどくさいのです。なぜかって言いますと自然の意見を入れないといけないのです。でも自然の意見を入れようと思っても自然が会議にやってきて意見を言ってくれるわけにはいかないですね。そうすると結局、人間が自然の代理人にもならなくてはいけないことになるわけです。人間が自分の論理だけでものを言ってはいけなくて、常に自然の意見を代弁する人間でなくてはいけないということになります。

そうすると自然の意見を代弁するという言葉は簡単ですけれど、「どうやったらできるのでしょう」ということになるので、そのために日本では祭りとか行事が盛んに行われるようになったと思います。だけど祭りというのは地域の自然の神を降ろしてきて、それを祀るわけです。あるいは一年の間にはいろんな自然が関わってくる行事があると言いますか、そういうことをしながら常に自然の意見と言うか、自然の気持ちというものを感じ取っていけるような場を作っていくのです。だから祭りと行事というのは、伝統的には今日のイベントではないわけです。これは自治の仕組みと言ってもいいくらいで、そういうものを通して人々は山の神様の意見というものを感じ取っていく。そのことで自然の代理人としての役割も果たしていけるようにする。そういうのが日本の社会だったわけです。

その点ではもうフランスの社会と日本の社会は「えらい違うなぁ」という感じになるのです 。

(7)伝統社会と土地の所有

①土地の神様との付き合い

そういう社会ですから、日本の社会の中には絶えずいろんな形で自然が入ってきます。いま東京で家を作る時には余り見なくなりましたけど、昔は家を作る時には必ず地鎮祭をやっていました。神主が出てきてちょっと祝詞をあげてみたいなことをやっています。あれは何かと言いますと、土地の神様にそこに家を建てる許可をもらっているわけです。

今は家を建てるというのは単なる不動産の取得になっていますから、「この土地は俺のものだ」建築基準法に違反しなければ「どんな家を作ろうと俺の勝手だ」となっています。けれど元々は土地を購入していても、土地の神様の許しを得なければいけなかったわけです。土地の神様に「ここに家を作りたいけれど良いでしょうか」と伺いをたてる。土地の神様はやさしいので「だめ」とは絶対に言わない。ですから直ぐに日本酒をふるまって終わってしまうのです。けれどもこれは儀式として昔はやらなければいけなかったのです。

というのはその土地には土地の神様がいて、その土地の神様の許しを得ながら、「私たちは生きている」という感覚があったということです。それを土地神様と言ったり、産土神様と言ったり、さらにはそれこそが自然であると言ってもよいということです。土地神様の許可を得て家を建てるというのは、自然の許可をもらって建てると考えてよいということです。

②全て自然の許可をもらいながら生きる

もう今はそういう習慣が無くなってきましたけど、僕のいる上野村ですと若い方が結婚して「そろそろ子供が欲しいな」という時には、産土神様に頼みに行くという習慣が以前はありました。その時には不思議なことにご夫婦だけではなくて、その家族も一緒だし集落の人も一緒なのです。

ぞろぞろと何十人で行って、産土神様に「子供を授けてください」とお願いをします。そんなことをやっていたのが、最近はさすがにあの習慣は「すさったなあ…」という感じです。けれども私たちが生きるには全て自然の許可をもらいながら生きている。それが産土神という神になっているだけの話と思っても良いと思います。

③土地の本当の所有者と近代

そういう社会を作っていましたから、「土地を所有する」という感覚も違っていて、確かに売買したりすれば役場の台帳的には自分の土地と記載されるのです。けれども、それはあくまで役場の台帳上の土地であって、その土地の本当の所有者は自然であり神様であるという捉え方をしてきたのです。だから「何から何まで自分のものになるわけじゃないよ…」ということでもあるわけです。

近代的な所有権というのは、独占的な利用権を持つということと、独占的な占有権を持つということ、独占的な処分権を持つという。つまり自分のものだから自分以外が利用してはいけない、自分以外はここを使ってはいけない、占有してはいけないということになるのです。自分の物だから誰に売ろうと「俺の勝手だ」。これが近代的所有権なのです。

④伝統社会の所有権

ところが伝統社会の所有権というのは、そんな感じではないのです。実は僕はある時に上野村で築200年くらいの、その割には随分ボロイなあという感じがしていますが家を譲ってもらったのです。上野村って不動産屋さんはありませんので、村の人が仲介になってです。一軒「売ってもいい」という家が出てきたので僕に紹介してくれたのです。後で話を聞いてみたら一応手続きを踏んでいて、その持ち主が村から離れている人だったので「売りたい」という希望があったのです。

その時に仲介に当たった人は、まずその家の本家へ連絡をして、あの人が「売りたい」と言っているが「買う気はあるか」というのですね。それは読みとしては絶対「買わない」という読みで聞いているのです。けれど、その売買する時の第一権利者として本家にあたるのです。本家が「うちが買います」と言ったらそれが優先されるのです。予想通り本家は「いらん」って言って、その次に有力分家というのが第二に権利を持っていて、そこをあたってですね。予想通りと「いらない」という。第三番目が集落の人に聞く、集落の人といっても数件しかないのですけれど、一軒ずつ回って買う気は「ない」という。

でもそれは仲介してくれた人の読み通りだったのです。その手続きを経て、僕のところに「買わないか」「欲しがっているでしょう」という。僕の方は二つ返事で「買います」という感じになっていたのです。

そうすると実際は、売主側としては、はっきり言うと僕が一番いいのですね。なぜかと言うと僕が一番高いわけです。本家が買ってしまったら値段は半分以下になっちゃうので、そんな売り方はあんまりしたくない。処分する以上は高い方がいいことは決まっているのです。でも、やっぱり村の売買には伝統的にはそういうものがあったりします。

さらに言えば、その土地っていうのは自然のものでもあるので、その許可をもらわなければいけないのです。

⑤常に自然の許可を得る世界

だから、ある時に村の若い衆が結婚して、その時に男の方は村の人だったのです。けれど、女の人は村に来た人、その二人で結婚したのです。その時に二人のたっての希望があって、「昔の上野村の結婚式でやりたい」と言うのです。

そのために大変ですが、その二人が中心になって調べたのです。昔の結婚式はどういうやり方をしたのかを全部調べ直してみました。そうすると上野村の結婚式って、まず嫁さん側の家で結婚式のようなことをやります。そこに亭主になる人がやってきて、その娘さんを連れて夫側の家に行くのです。そこで結婚式を行うので、事実上、結婚式のようなことを2箇所でやっているのです。主人側の家の結婚式にももちろん新婦側の家族も皆来ますから、そこで大きな結婚式になっていくのです。

けれどその時にびっくりしたのは、昔は嫁さんを馬の背に乗せて連れてきたのですが、それはちょっと無理だったので、そこだけは車にしちゃいました。けれど夫の集落に来ると道の真ん中で二人が座って集落の神様に「結婚していいか、どうか」の許しをもらわなければいけないということなのです。そこの道の真ん中にお供え物をして集落の神様に「今度、結婚することになったけど、ここに暮らしていいか」と言うのです。集落の神様は優しいですから「ダメ」とは言わない。そこで集落の神様の許可をもらって家に入って結婚式を挙げるという形です。だからこんなところでも、ちゃんと許可をもらわなければいけないのです。それは単に儀式に過ぎないといえば儀式に過ぎないのですけれど、そうやって常に自然の許可をもらいながら生きていくのです。

そういう世界があったのだと思っていいということなのです。

(8)伝統的な森林所有

①所有権は立木のみ

そういう中で、例えば森林の所有権でも多様な形が見られます。さっき言ったように近代的な森林所有で言えば、独占的な利用権や所有権、占有権や処分権も所有者が持っていますから、その範囲で何をしようが自由になるのです。

ところが日本の伝統的な森林の所有権では、所有しているのは生きている立木のみというのが約束なのです。だから生きている立木を他人の山に入って勝手に切ることは出来ない。今だったら一言かければ、たいてい「切っていいよ」という話になりそうですけど、一応それは声をかけなくてはいけません。ただし「生きている木以外の所有権はない」というのが伝統的な日本の所有権なのです。

枯れ木はもう所有権が無いのですね。むかし薪で暮らしていた時代には、山を持たない人というのは薪を集めるのに苦労することがどうしてもあったのです。どうしても山に入って枯れた木を切って、それで薪を作る。これは勝手にやっていても所有者は文句をいうものではないことです。それから枝が落ちると所有権が消滅する。所有権は生きている立木だけですから。台風などが来ると山を持たない人が、翌朝早く山へ行って落ちている枝を拾うということをやっていたのです。

つまり自分のものだと言いながら、所有権が及んでいるのは生きている木だけ。そのために私たちが他人の山へ入って山菜をとったり、茸を取ったりすることができたのです。それには所有権がなくても出来たのです。ただ一部の茸なんかについては所有権設定を地域としてやる場合があります。特に多いのは、松茸なんかになると地域社会で取り決めがあります。でも、いわゆる雑きのこと言われるようなものになりますと、大体所有権はありません。

ただその時にも所有権がないから、山に入る人は地域社会の人に限定されていたわけです。ところが今困っちゃうのは「茸や山菜に所有権がありません」って言うと、都会の人が来ちゃって、それで根こそぎ持っていっちゃったりするものですから、そのためにちょっと「入山規制を入れようか」ということも起きています。

でも、元々の地域社会の取り決めでは、生きている立木以外は所有権なし。松茸などは生きている立木に準じるものとして、地域社会が設定しているものがあるということです。

②地域社会が設定している所有権

うちの村では、昔は蔓と萱―ススキですけれど―、あれに所有権設定していました。というのは蔓というのは紐として使うのに大変重要だからです。それから萱はうちの村では冬場の馬の餌として使ったのでとても重要だったのです。

ただし10月10日に萱刈日と蔓切り日があって、この日以降は誰が切っても良いとなっていました。10月10日っていうのは、そういう萱にしても蔓にしても使うのに一番いい状態になっているときなのです。だから所有者はそれまでに切り、一番良い状態の時には地域社会に開放する。いま蔓切り日を設定しても誰も切りに行きませんから関係なくなっちゃいました。でも昔はそうやっていました。

(9)総有と共同体

それには地域社会ごとに取り決めがあったりするのです。だから実は森林の所有というのは全てが所有者のものではなく、立木だけは所有者のものなのだけど、あとのものは地域社会の共有物であるという捉え方があって、そういう所有のあり方を僕は「総有」という言葉で呼んでいるのです。つまり「私の物だけど、皆のものでもある」という、そういう所有のあり方はもっぱら地域社会がやってきたことです。

総有というのは実は二つありまして、一つは今言ったように「僕のものだけど、皆のものでもあるからね」という、それは元をただせば「僕のものだけど、神様のもの」という、つまり自然のものが働いていたわけです。でも、もう一つは厳格な総有というのもあります。

例えば、ここから山を越えて静岡県の掛川市にいくと、掛川で長らく市長をやっていた榛村純一さん―数年前に亡くなりましたけれど―という方がいました。この方は江戸時代からの山庄屋と言っていいような方で、明治以降は林業をやってきたという家です。

あの家には厳格な「総有の森」がありました。それはどういうことかというと「村の人たちが何かあった時に切る山」と言うか、災害が起きたとか大火があったときに皆の共有財産として山を作っておいて、何かあった時にそれを売って原資にするという場所です。それは共有林という形に設定しないで、庄屋さん預かりにして江戸時代からやっていたのです。だから台帳上は庄屋の榛村さんの家の物なのです。榛村さんの家の山なのだけれど、実際には村の人たちが、いざという時に使うために良い木を育てていて、それを榛村家が預かっているという形になっている。それが総有って言うのです。

榛村さんは子どもの時からお婆さんにあそこの山にある木は全て総有物だから、あの総有物を榛村家の都合で切るときは「榛村家はこの地域からいられなくなる時だ」ということを、おばあさんに繰り返し、繰り返し教わったと言っていました。

だからそういう総有もあるのです。だけど多くの場合にはさっき言ったような「自分のものだけど皆のものですよ」という形です。それを僕は「総有という網がかかっている」という言い方をします。それは共同体社会ではよくある話です。何故かって言うと一番小さな共同体というのは家族なのですね。家族の中では、「私の物だけど家族みんなのもの」だというものがごく当たり前にあります。だから「これはお父さんのお金だけれど、みんなで使うお金だ」という当たり前の事なのです。だから所有権があるから「俺のものは、俺のもの」だと言い続ける家族がいたら、この家族ちょっとやばいなという感じになってくるのです。

ですから「共同体は総有を作る」ということです。それがかつては地域社会も共同体的なつながりの中で営まれてきたからです。

(10)私有、共有、総有

そこに総有関係みたいなものから共同体的総有が発生するということです。したがって日本の伝統社会では私有とか共有と言うだけではなく、もっと所有関係は複雑だったのだと思えば良いということです。だから共有林と言われている山でも、集落近くのみんなで薪を取るような山で共有林設定がなされているという場所もあります。それから上野村やこの根羽村になれば森はいっぱいありますから、皆さんが薪を取ることに苦労することはない。そういう地域では、その地域に適した私有、共有、総有というあり方が出来上がって行きます。

だから所有のあり方というのは、もっと地域ごとに多様でした。日本の法律が作っている所有の取り決めと、地域社会が作っている所有の取り決めというのは同じではないというように思って良いということです。

(11)共同体について

①ヨーロッパの思想と日本の思想

それは日本の中でもさまざまだし、ヨーロッパに行くと本当にいろいろなものが違っています。例えば社会観をとっても、ヨーロッパの社会観というのは生きている人間が作っているのが社会という観念を持っています。それに対して日本の社会観というのは自然と人間で作っているのが社会、伝統的という社会感を作ってきました。さらに人間も生きている人間だけではなくて、亡くなった人たちも含めて地域を作っていると考えてきました。だから正確に言うと「自然と生者と死者の世界」なのです。そのように言うと、じゃあ死者というのは「亡くなった後の姿はないけれど、間違いなく魂はこの辺にいる」。そのように思われがちですが、日本の思想というのはそういうものとは違うのです。

ヨーロッパの思想になりますと「確かにそれがある」ということを一生懸命説明しようとする。例えばキリスト教で言えば「神は確かに存在する」ことを証明しようとするのです。ところは日本の場合には神にしても仏にしても、「確かにその神はいるのですか」と質問されると、皆さんあやふやになると言いますか、はっきり証明できない。「居るような気がするし、居ないような気がする」としか言いようがなくなってきます。

根羽もそうでしょうけれど、うちの村でも一番たくさん祀られている神様は、断突で山の神というものなのです。次に祀られているのは水神様、水の神様が多いのです。けれども山の神って、そこに住んでいると山の神様が森を守っていますから、やっぱり「大事にしなきゃ」という気分になってくるのです。けれども「山の神って本当にいるのですか」なんて質問されちゃうと、とりあえず僕は「会ったことはありません」と言うしかないのです。誰も会ったこともない、だけれども「山の神が森を守っている」という世界観を大事にしながら生きていく。こういう地域で生きていくとすれば「一番腑に落ちるよね」と言う。そんな感覚で守られてきたと思っていれば良いと思います。

それは水が出る場所なんかでは祀られている水神様もそうで、「水神様って本当にいるのですか」って言われたら困ってしまう。やっぱり自分たちが使っている水、それを守っている水神を大事にして生きていく方が、私たちの社会にはよいのではないか。文化的ではないかという感覚があるわけです。私たちにそういう神にしても仏にしても、それがいるかいないか証明もしてないし、特に証明しようとも思わない。それなのに、そういうものと共に生きていくのだと思います。

②「関係を結ぶ」から生れる社会

それはどういうことかと言いますと、実は日本の考え方というのは先に神や仏がいるのではなくて、神や仏と関係を持ちながら生きようとするから、「神や仏が現れている」という捉え方をすることなのです。それを欧米流に考えると「神や仏が本当にいるから」だから私たちは関係を結ぶことができるという捉え方になっているのです。

日本の思想はそうではなくて「関係を結ぶから発生するのです」という、むしろそういう捉え方だと思えばいいと思うのです。それを分かりやすく言ってしまうと、例えば夫という人と妻という人が発生する。どうして発生したかといえば夫婦という関係が成立したから。夫婦という関係が成立しないのならば、男の人や女の人はいるけど夫や妻は発生しないということです。あるいは親子でもそうですけど親や子が発生するのは、親子の関係が成立しているから親や子が発生する。逆に言ってしまえば親子の関係が破綻していれば、もはや親の存在も子も存在しないって考えて構わないことになるのです。

だから昔の日本の社会は養子の人が多かったのです。養子というのは血縁のない人を子どもとしてもらうわけです。そこには血縁があろうがなかろうが、そこに親子の関係が成立すれば、それは親と子が成立することなのです。別に血縁にそれほどこだわるわけではありません。

ある面で血縁に一番こだわっているのは戦後の日本なのです。それまでは本当に養子はたくさんいた時代ですから、関係が一つの実態を作りあげていました。それが日本の発想なので、神や仏も神や仏が先にいるわけではなく、神や仏と結びあいながら生きようとする人たちがいる時に、「その関係が神や仏を作っている」と考えてゆくのです。だから、ある意味で関係至上主義といってもいいし「関係が中心にあって、実体はその結果だ」という、そういう捉え方をしてきたのが日本の思想なのです。

ですから正確に言っちゃうと日本の社会というのは、自然と人間の関係がこの社会を作っている。それから生きている人間同士の関係がこの社会を作っている。それから死者との関係がこの社会を作っている。だから死者と関係を結びながら私たちは社会を作っているということになります。その自然とか死者とかいう世界の中に神や仏の世界があるので、それは神仏の関係の中にこの社会を作っていると言ってもよいということなのです。

③江戸期までの日本には「宗教、信仰はなかった」

ちなみに神仏という言い方をするとちょっと困ってしまうのは、「それ、宗教の話ですか」と思われやすいのです。ところが宗教とか信仰という言葉は明治になってできた翻訳語なのです。ですから明治以前の日本、つまり江戸期までの日本には「宗教、信仰はなかった」と思ってもらっていいのです。

だけど、そうすると仏教は古代から入っていますし、日本には腐るほど神様がいると言ってもいいので、「あれは何ですか」となるのです。いま私たちが思っているような宗教や信仰ではないのです。

つまり先ほど言ったように家を建てるときには自然の神様に許可をもらって建てる、それが「当たり前」ということでして、別に地鎮祭やったからといって誰も宗教やっているとは思っていなかったのです。そういう中に私たちの社会は関係を作り出していて、その関係を作っているものの中に、自然や生きている人間や死者や神仏がいるというふうに捉えてきました。

そうするとその関係の世界を大本で守っているのは自然自身って言ってもいいし、あるいは自然の表れである神であると言ってもいいのです。

(12) これからの関係と総有について

そういう感覚で生きている人間からすると、俺のものは全部俺のもののような発想ではないわけで、あらゆるものに総有という考え方がどこかに含まれているということです。そうすると、これからの社会を考えている時に、いろいろな総有関係が成立しながらこの社会をつくってゆくみたいな、もういっぺん作り直さなければいけない気がします。

その時のいろいろな関係の中で昔と違うのは、その地域の人だけによって関係が発生しているわけではないということです。だから矢作川で言えば上流の人もいるし下流の人もいる。「その人達の関係が新しい総有関係を作っていく」という、そういうことが今、いろいろなところで始まっています。

その時に何が中心で何が周縁なのかということも、どこに価値基準を置くかによって非常に多様性を持ってきます。だから市場経済の中心は、別に根羽村が市場経済の中心にならなくてもよい訳で、それは安城市がやってくれるなら、それに任せれば良い。だけど、この中心は「うちです」というものがあって良くて、そういうものをまた総有的に共有してゆくとすると、どういう関係をつくっていったら、そうゆうものが出来上がっていくか。

新しい総有をつくってゆくための関係とは何か…、そういうことをこれから検討していかなくてはいけない時に来ているのだろうという気がします。

(13) 公共、総有、自治、自治体

①ヨーロッパがつくった概念

実は髙橋寛治さんから公共という注文を電話でいただきまして、私は髙橋さんと付き合いが長いので髙橋さんに言われると弱いのですけれど。それが「公共とは何か」という質問なのです。

率直に言っちゃいますと、僕は公共なんていう言葉はあまり使わないのです。なぜかといいますと、これは「ヨーロッパがつくった概念だから」という感じです。僕は、本職は哲学なのですけれど、哲学の世界にいきますと、今から200年前からヨーロッパの哲学というのは「何か根本的な考え違いをしたのではないか」と思う哲学者が発生し始めたのです。その人たちはむしろ東洋思想から学ぼうという姿勢を見せたのです。

例えば、今から150年ぐらい前にドイツで活躍していたショーペンハウエルという人がいましたけど、ショーペンハウエルなんかは「生は無である」と言って、「死もまた無である」と言っている。生も無であり死も無であるならば、生と死を分けるものは何にもないという。にも関わらず人間は、なぜ生の延長を図らなければいけないのかという。そういう問いを自分に対して発しているのです。

その後にショーペンハウエルは自殺してしまうのですけれど、その無であるというのは彼が仏教から学んできた。―むしろ仏教ですと無より空であると言ってもらった方がうれしいのですけれど―無とか空というのは何もないのではなくて、「あるのだけれど掴むことができない」という意味です。

だから生というのも、私たちは生きているかぎり日々やることがあるので、朝起きて顔を洗い朝ごはんを食べて、人によってはそれから仕事に行ってとかいろいろある。それが生なのです。けれど「生きるって言うことは根本的には何だろうか」という問いになってきますといろいろな答えができる。けれども全員が納得する答えは出せないのです。

ある人にとっては「これが生きるということだ」というふうに納得がいくかもしれません。けれど他の人にとってみればそれでは答えにならないということがある訳です。なぜかって言うと、生きるというのは何かということは掴むことができないからです。だから感覚的に捉えることができるのだけど理論的に説明することができない。だから生は空なのですね。

死もまた空というのは、死も「心臓が止まったら、死ぬのでしょう」といえばはっきりしていますけれど、死というものはどういうものなのかという問いをしていくと論理的説明ができない。だからそういう意味で捉えることができない。だけど私たちの体はなんとなく生とか死を知っている。捉えどころがないのだけど知っています。空ってそういうものなのですね。だからショーペンハウエルは、生は無であるし、死も無であるとすれば生とし死を分けるものは無いというのです。

彼は金持ちの息子ですから毎日たいへん退屈していて、しかも20代後半で出した本で彼はドイツ哲学会のトップに立ちましたから、そういう点でも毎日が退屈で退屈でしょうがなくて、こんなことを「なんで、やってなければいけないのだ」というそういう捉え方です。だからそのことにあるように、実は200年くらい前からヨーロッパの考え方の限界というのを哲学の世界では思う人たちがいて、そういう人たちが東洋思想、とりわけ仏教思想から学ぼうとする姿勢を示したのです。

②一緒に楽しんでいく自由

それに対して社会思想の方は意外とそういう挫折感を持たないで、ヨーロッパが掲げた近代の理念が実現していけば「いい社会ができるぞ」という方向でいったのです。だからフランス革命で言えば自由・平等・友愛のようなものを徹底的に実現させていく。あるいは民主主義を徹底的に実現させていく、そうしたら「いい社会ができる」という。社会思想系の人はそういう立場を取ったのです。

それに対して哲学系の人は根本が間違ったのではないかという方向に行ったのです。人によって違いますから、そうはっきり分けられるわけではないのですけど、そんな感じが強かったのです。ところが社会の方は、近代の理念をうまく実現しようとしても、うまく実現できない社会が続いたわけです。

いま私たちは、例えば自由とか民主主義とかが、ある程度実現していることは皆知っています。でも「本当に自由になったか…」と問われてしまうと、はなはなだしく疑問なわけです。

例えば僕がヨーロッパに行ったときも、ある時にスペインのローカル線―飯田線よりももっとローカル線という感じです―、に乗っていました。一両なのですけれども結構客は乗っているのです。そこに郵便局の人らしい人がいて、駅へ着くたびにホームに地元の郵便局員が来て、渡す手紙の束を渡す。向こうはポストの手紙をその局員に渡し、また次の駅に行く。そんな感じでやっているのです。

ある駅に着いたら、日本だと中学三年か高校一年くらいの女の子がホームに来て、郵便局員のところにパッと行って「私の手紙来てない」って。そうしたら局員さんがそこで探してですね、「お~あった」みたいな感じで渡す。ですから地元の郵便局員を通さずに直接渡して、そうしたら「やった」っていう感じで、よっぽど待ち焦がれていた手紙なのでしょうけど、それを持ってゆく。

それを見ていて、乗客たちの電車は3、4分遅れたのですけども、それよりもみんなして「良かったね」っていう感じなのです。そういうことを一緒に楽しんでいく自由と言いますか…こういう世界ってもう日本にはないなと思ったのです。だって郵便局員の人が運んでくる自動車を止めて、「僕のない」なんて言ったら怒られてしまいます。そういうことです。だからスペインの田舎ですけども、そこではそれが成立している。

自由って本当は何だろうかという気がしたのです。

③人間が本当に自由だと感じる自由

確かに言論の自由がないとか出版の自由がない、結社の自由がないというのは大きいことですから、それくらいは「最低保障しましょうよ」ということはちゃんと言わないといけない。でもそれがあれば自由だというわけでもないのです。そうすると日本の今の社会って、一応、「言論の自由」はあると言われながら、ケースによっては突然ある場所では言論の自由がなくなってしまうこともあるわけです。

例えば最近話題になっているビッグモーターの 社員さんたちは「言論の自由があったでしょうか」と聞かれたら、僕は中身まではよく知りませんけれど、多分社員さんは苦労したのだろうなと想像されます。だからある場所で言えば言論の自由さえないような世界ができていて、仮に言論の自由があったとしても「人間が本当に自由だと感じる自由ってなんだろうか」ということになってくると、残念ながら近代社会ではどこの世界へ行っても成立しないと言ってもいいと思います。

④キリスト教世界での「公共」

哲学では今から170~180年前に、ドイツにマックス・シュティルナーという人がいます。マックス・シュティルナーは近代化した社会の中で、近代の自由というのは、これを自由だと国が定めた自由を「自由だと言い続けるしかない」という言い方をしています。つまり我々の自由は実はなくて、ただ国が主張する「これが自由だという、それに調和する自由しかない」という皮肉な文章なのです。

確かにそういうところがあるわけです。そうすると、その中で比較的に社会学思想を専門とする人たちは、いや、まだ自由が十分実現していないからで、最終的に実現すればいい社会が出来るのだとか、民主主義は本当に実現していないから、いろいろ問題が起きるのだとか、そういう言い方をする人が多かったのです。

だけどなかなかうまくいかない時に、いきなり表に出てきたのが「公共」という考え方で、社会思想系の人が出してきました。その代表的な人がドイツのハーバーマスという人です。

つまり「本当はこの世界は公共なのだ」。だから「その公共をみんなで作って守ってゆく」「その道筋をきちんと考えなければいけないのだ」という、そんな言い方をし始めたのです。だけど公共という考え方は「公共という普遍的なものがある」という考え方なのです。それはもともとキリスト教から出ていて、キリスト教社会では、神が与えたものが公共なのです。ですから熱心に神を信仰すれば世界中どこにいても公共的世界になるわけです。それが近代になりますと、そういうキリスト教を外して公共を考える。でも普遍的な公共があって、そういう「普遍的な公共はみんなが作って守ってゆけばいいのだ」「その考え方は維持された」というものです。

それで公共理論というのはたくさんあって、哲学でも公共哲学をやる人も出てきました。経済でも公共経済学という、いろいろな公共をつける人が増えてきたのです。まあ、そういう普遍的な公共があると考えていくのではなくて、それぞれの総有的世界があるのだという、そちらから攻めた方が面白いと僕は思っています。

⑤何を共有しながら、それぞれの世界を作っていくのか

とすると、ここには根羽村の総有的な世界があるだろうし、根羽村にはたくさん集落があるでしょうから、集落ごとに考え方が違うものがあるでしょう。さらに、ここは元から矢作川を使った上下流連携が進んできた地域ですから、そこで新しい総有というのも考えることもできる。

むしろこれからはもっと多様に飯田の方と結んだ総有があったり、矢作川流域を結んだり総有があったり、いろいろな総有があって良いということです。私たちは何を共有しながら、「それぞれの世界を作っていくのか」という、それを追求していくことが大事じゃないかなという気がしているのです。

高橋さんから公共と言われたのでちょっと冷たい返事をしたという感じなのです。

⑥ハーバーマスの理論

最近の公共理論ではハーバーマスという人が世界的にチャンピオン的な立場に立った人なのです。けれども僕からみるとハーバーマスなんて「このバカ」という感じですね。つまり社会が実際には民主主義と言いながら、政治家がつまらない暴走をしたり、いろんなことが起きるわけです。市民がしっかり自覚して、監視をして、さらにいろんな意思決定の過程に市民が参画していく。その事によって公共的な世界を創造するみたいな「何を共有しながら、「それぞれの世界を作っていくのか」ってそんな感じなのです。

けれど、そんなものお前さん、現場を知らないから言っているだけでしょうと言っています。つまり「そんなことが成立したところが、どこにもないのだ」ということです。それは市民参加というのはいいです。いろいろな人が参加してやるというのはいいのだけれど、実際には、その参加した人たちがちゃんとした仕事をしない、そういうケースが多々見られます。

⑦役所や政治家が勝手に暴走するよりは、いろんな人が加わったほうがよい

僕も国の審議会委員をすることがたまにあるのです。僕らから見た時に、これはちょっと「はい、はい」って帰ってくることができないテーマだと思うことがあります。全部ひっくり返すことは無理ですから、一本だけでも「何かこれからの切っ掛けになるものを残しておく」と言うか、そのために粘るという感じになるのです。でも今回の会議は別にそういう問題が中にあるわけでもない。そうすると委員と言いながらお茶を飲んで帰ってくる委員だけになっちゃうわけです。

つまり実際には他の委員の方で肩書きは立派な方々でも、行動を見ていると役所は何をやろうか、一生懸命に忖度して迎合して意見を出すとか、そんなのばっかりなのです。たまに何人か気骨のある人がいるというのが現実です。ですから「役所や政治家が勝手に暴走するよりは、いろんな人が加わったほうがよい」という言い方はできるのです。

けれど、それによって理想の仕組みができているわけではありません。

(14)まとめに代えて

むしろ昔の集落だったらば、集落は寄合によって決めていきました。寄り合いは全員参加型ですから満場一致しか決定する仕組みがないというやり方です。そうやって小さな自治を基盤として作り上げてきました。それが今度連携をする時に、もっと大きな総有的世界を持ったり、時には市町村の境界を超えた総有的な世界を、分野によっては作ってくことが出来るのです。

そういうような「多層的、重層的な総有の世界こそ必要である」と僕は思っているので、後で高橋さんから批判を受けたら「すいません」というかもしれませんが、これで僕の最初の報告を終わります。ありがとうございました。(拍手)

 

 

 

質問~1

飯田市のIです。

もう少し詳しく聞きたいことがありまして、「労働」と「仕事」の違いをお願いします。

(内山先生)

僕がよく使っているのは「仕事」と「稼ぎ」の違いというのを使っていて、それは上野村で教わった事なのです。村の人たちが仕事をする時には、収入になる仕事もあるのですけれどお金にならないこともあります。この村で生きてゆくときに大事なこと、それをするのも仕事なのです。それで初めの頃は面食らったのです。

例えば寄り合いがあったときに、終わると「いや…、仕事をしてきた」という。お金にはならないけれど寄合って仕事をしてきたという感じです。なにか村の中でいろいろな…例えば結のような仕事もあるわけです。みんなで草刈りやったからって言って一銭にもならない。でも仕事なのです。だから、この社会の中で生きていこうとすると、「こういうことをちゃんとやりながら生きていく」という、それが仕事となっています。

それに対して稼ぎと村の人が言っているのは、そういう意味ではしなくてもよいことです。でも生活をしていかなければいけないから、稼がなければいけないという。そういうものを稼ぎと呼んでいて、その時に「仕事」と「稼ぎ」を分けながらいく社会っていいなと思ったのです。つまり、その境界線がどこにあるかって、いつの間にか分かりにくくなっていたのです。

村に暮らしていても分かりにくい部分がたくさんあるのです。例えば、山の木を育てるって言うと「山に仕事に行ってきた」という時もあるし、「山に稼ぎに行ってきた」ということもある。つまり木を育てながら共に生きていくという感覚で仕事をしている時には「山に仕事に行った」という。だけど木を見ながら「この木はあと10年経ったら売れる」なんて言ったり、場合によったら「100万円くらいになるな」と思いながら、その100万を作るために山の木を手入れするという。これ、山稼ぎなのです。だからやっていることは、同じではないかという感じがするわけなのですが、でもその人の位置づけが違います。

畑も同じで、「畑仕事をしている」という時には、ここにあった畑の仕事をしているという。そうやって生きているのは「私たち」という感覚で続けているのは仕事感覚なのです。けれども、例えばここにこれを作って10万でも20万であれ売上を上げよう。そういう感覚で畑を作っていると「あの人、畑稼ぎに熱心だね」って言う。だけども植えている物は同じなのです。ですから向き合い方が違う。その時によって仕事になったり稼ぎになったりする。だから非常に微妙なものを持っているのです。

けれど、そういう点では地域社会が作ってきた仕事観であり、稼ぎ感であると思えば良いわけです。ですから村の人は、稼ぎをやめたほうがいいと思っているわけでは無い。やっぱり稼ぎが無いとやっていけませんから「稼ぎも大事だよ」と言うわけです。そして、あの人は稼ぎを一生懸命やっていて「偉い人だね」という場合もあるわけです。だけれど稼ぎより仕事の方が重要なのです。

そうすると人間は一生の間に仕事中心で生きていくことが可能な時もあるし、そうはいかない時もある。当然ながら親が病気になって入院しているとか子供の教育費がかかるとか、そうすると仕事ばっかりをやっているわけではない感じになるのです。一生の間に稼ぎのウエイトが大きくなったり、逆に仕事のウエイトが大きくなったり、そういうことを調整しながらいくのが人間の知恵。それで仕事もうまくいけば結果的には収入になる場合があるわけです。だけども仕事の方は、収入になってもあくまで結果なので目的じゃないのです。だから目的じゃない以上はたいした収入にならない場合が多いのです。

例えばうちの村で言うと、お盆の前ぐらいに菊の花を出す農家が何軒もあります。ちょうど僕の家で標高600mぐらいあるので、あんまり調整しなくてもお盆の頃に花が咲きます。だからそれを使って切花の出荷をする。切り花出荷はもう村では代表的な畑稼ぎです。

これは作らなくてもいいのです。だけどやっぱり収入のためにはこれをやらざるを得ないことになっていくのです。だからだんだん見ていると、あの人「畑稼ぎをしている」とか、あの人「畑仕事をやっている」とか、そういうのが見えてくる感じです。だから、そういうものも全部地域社会と共同体が作ってきたと考えればいいのかなと思います。

だから「労働」というのは明治になって入ってきた翻訳語なので、向こうの労働観が日本に入ってきました。ただ近代社会になってくると向こうもこっちも生産の仕組みが同じようなもの―日本が向こうの真似をしたという感じですけれど―になってきますから、同じような「労働観が成立する」と言ってもいい気がします。

だからヨーロッパでも労働観というのは結構複雑なことがあって、元々はギリシャ語で労働というのは奴隷の仕事と思われていました。市民というのはもっぱら政治をやっていたわけです。それは労働ではないと考えていました。そういうヨーロッパ的な捉え方があって労働は労苦であるという「一つの苦しみ」だと、労働をしない人たちが思っていたということです。

ところが中世になってくると、向こうは働いている人自身が書き物を残すということはすごく遅れるのです。というのは日本の幕末の頃の識字率というのは、低めに見ている人でだいたい50%くらい、多く見ている人ですと80%くらいという過半数の人が字も読め、書けるというのです。もちろん複雑な漢字が全部書けたかどうか知りませんが、とりあえず字が読み書きできる。それが日本の幕末の現実だったのです。けれど同じ頃のフランスの識字率は10%ですから、いわゆる一部教養人しか字が読めない。だから働いている人が文字を残すことは無いわけです。

ただ中世くらいから、石工の人達は結構文字を残しているのです。石工というのは石で建物を作ったりする人たち、あの人たちは図面や契約書を作ったりします。石で作っていくのはすごく時間がかかりますから、そうすると契約書が重要になってくるわけです。だから字が読めるようになってくる。

石工の残したものを見ると、やっぱり労働というのは大変さもあり、苦しさもあるけど、出来た時の喜びもあるし、労働の中に楽しみもある。だから日本の労働観とあまり変わらない。大変だし、でも楽しい。そういう両面を持っているという捉え方をしていたのです。

ところが近代になってくると工場労働というのが始まったのです。工場労働になったらギリシャ時代の労働観が戻ってきました。つまり職人的に物づくりをするのではなくて、命令に応じて仕事をするという形です。それはヨーロッパでは階級社会ですから、労働者というのは命令に従う人なのです。だから自分で意見を言ってはいけないわけです。そういう形の社会ができていたために、労働というのは金のためにおこなう労苦だという、そういう労働感がまた復活しました。

そんなふうに思えてきて…だからヨーロッパの労働観は結構、なんべんも変遷を遂げながらきているのです。けれども日本の場合には、労働というよりも仕事と言った方がいいし、あるいは稼ぎって言ったほうがよいと思っています。

 

質問~2

飯田市のTと申します。

この春に飯田市にきまして、それまでずっと東京で仕事をしていたのです。内山先生の話があったような、東京が中心で地方が周縁かという問いについてもすごく同意です。実際に飯田・下伊那で活動していると、どっちが中心でどっちが周縁かと思います。

こっちの方が豊かな暮らしだったとか、逆には東京ですと「東京砂漠」という昭和の歌がありましたけど、私も東京砂漠で火傷して阻害された気持ちで日々を過ごしています。東京出身者ながら日々「おかしいな」と違和感がある中で、こちらで飯田・下伊那の人間らしい暮らしができるということから、まさにここから日本や世界が変わっていく重要な意味がこの地にあるのではないかという気がしています。

その中で今日の総有という概念を伺いながら、自分自身「総有のために、人生を生きていこう」というくらいに感じているのです。けれども一方でその総有が公共ということでヨーロッパではハーバーマスが提唱して、それが欧米社会などでは共有されてきています。

そこで質問と申しますのは、総有というものは、私たちがいる飯田・下伊那では何世紀も続いている村落共同体が息づいてきて、かなり同質性が担保されている地域だと成立しやすいのか、逆に言うとヨーロッパですとかアメリカとか多民族国家になっていますので、なかなか総有の概念がむずかしいかも知れない。

一方でダイナミックに考えてみたのですけれど、今環境問題でグレタ・トゥーンベリさんが環境危機を述べているわけですが、もしも世界が総有という概念を共有できれば、地域環境についても大きく良い方向に舵が急展開できる可能性さえ感じるのです。むしろ日本の我々がいる村落から総有の概念を世界に向けて共有してゆくことも大事だと思うのです。確かに社会の全体性という概念がありますので総有という概念は相性が良いと感じているとこなのです。今日ご紹介いただいた総有という概念が単一性の日本の村落共同体の、元々そこを念頭として示唆をくださっている概念になるのか、それとも世界と総有の概念を共有していくにはどういう概念が必要となりますかということが質問でございます。

(内山先生)

多民族国家とか単一―日本は単一民族ではありませんけれど―そうゆう基準よりも、時間という基準の方が重要です。つまり何かが生まれてゆくためには時間が必要であるという。

だから、例えば東京が消費社会としてはどんどん新しい社会が作られていますけど、人間たちが本当に充実感をもって生きていく場所としては、残念ながらちょっと弱いという。それは何かと言えば東京には時間の蓄積がないことなのです。

つまり都市というのは、たえず作り変えていくことにエネルギー源がある。だから、東京の場合は今でもそうですけれど、なんとかタウンとかいろいろなものが次々と再開発されていて、それで、住んでいてもよくわからない街がいっぱい発生する。だけどその事によって常に市場が生まれ活力が生まれてくるという、そういう活力なのですよね。ですから蓄積されたものによって出来ていくものではないということなのです。

それに対して農村・山村社会になってきますと、むしろ新しいものを入れていくというのは時によってマイナスになってしまうのです。むしろそこに保存されている物を大事にしながら新しいものを入れて行く時にも、保存されているものとトラブルが起きないように入れていくということです。それが重要、むしろそれがエネルギーになっていくのです。

だから例えば根羽村で、今までの根羽の産業などを全部やめて、ここは「一大リゾートにするのだ」というようなことをもし言った場合ですね。これでは根羽の活力にはならない訳です。もちろん人が訪ねたりする村を作ろうというのはいいけど、その場合でも、今まで村に保存されているものと調和する形で人が訪ねてくるというのはエネルギーになるのです。今までのものを破壊して新しい物を入れるというのは、多分、農村社会とか漁村もそうでしょうけど力にはならないと思うのです。だからその辺が都市と農村の決定的な違いがあると思って良いと思います。

だから時間の蓄積が必要な社会。それから言うと例えばアメリカの場合には残念ながら時間の蓄積がないということです。つまり絶えず流入民によって作られていく、そういう社会を作っているわけです。ですから、まだ本当の意味で総有と言うような、そんなことを議論する段階に来てないと思って良いということです。

実はヨーロッパもアメリカと比べれば歴史は長いのですけれど、一面では似たようなところがあります。例えばヨーロッパの街に行くと景観をしっかり守っていて、日本の方は景観が台無しにするようなことをよくするものだから、やっぱり日本も、もうちょっと景観を守った方がいいのではないかと、たいていの人は思うわけです。僕もそう思います。

そう思うのですけれどヨーロッパの人たちが景観を守っているというのは、かなり悲しむべき理由もあるのです。それはヨーロッパの人たちのコンプレックスとして、中世のヨーロッパっていうのはイスラム圏が中心で、自分達は世界の農村と言われた時代があるわけです。つまり後進国だったという。本当に言えば何が後進国なのか基準などないのですけど、確かに中世ヨーロッパ圏というのは、中心はイスラム世界の方にあります。

実際に中世の時期というのは、例えばヨーロッパの哲学と言うと、僕ら「ギリシャ、ローマ哲学がありましたよね」となるのです。けれどもギリシャ、ローマ哲学というのはヨーロッパでは保存されていなかったのです。当時はスペインの南の方にグレナダ回教国が出来たので、欧州のいろいろな勉強したい若者はグレナダ回教国に留学するのです。そこでまた「こいつは見るところがある」と思われた人たちというのはバグダッド大学に留学するわけです。バクダット大学に留学したら、そこでギリシャ、ローマ哲学を学んだというのです。向こうには保存されていたのです。そこで昔こんなものがあったのかという、つまりヨーロッパってそういう歴史なのです。

そういう中世ヨーロッパっていうのが、ヨーロッパ人からすれば時代遅れの暗黒の時代だという気持ちがあってですね。ところが大航海時代に入る1500年くらいからヨーロッパって略奪貿易を始めます。それで世界の富を略奪して歩く。そのうちに資本主義を発生させて世界の中心という気持ちが出てきて、その結果出てきたのがあの景色なのです。つまり、あの景色というのは自然にできた日本の農村景観とは全然違っていて、ヨーロッパが後進国時代を脱出して、世界のトップ選手になった。そこで作り上げた景色だから、そこにヨーロッパの原点がある。だから「あの景色は守らなくてはいけない」というヨーロッパ人の意識があったのです。

だから僕も景観を守るのはいいのだけれど、その背後にある意識は「ちょっと情けなくない?」という気がするのです。だから、ある意味ではヨーロッパって「たかだか300~400年の歴史だよね」という言い方ができるのです。そういう社会のことが分かってきているから、ヨーロッパの人たちもアメリカ人も含めてですけど、日本にやってきて温泉に入って「いいね」って言っているわけです。つまり、もっと長い歴史がそこにあるというそういうものを感じる人たちが、今きているという感じです。だから「時間という、どうにもならないものによってしか解決がつかないものもある」ということは自覚しなければいけないのです。

そうすると多民族か単一民族かではなくて、日本だって元を正せば石器時代の人がいて、縄文の人がいて、弥生の人がいて、それ以外に北方民族が来る。秋田あたりはもしかするとロシア人が来たという説も、遺伝子を調べるとありえるらしいのです。また南の方には沖縄・南方系の人もいます。だけど、それがいつのまにか融合しあって、とりあえず日本人といわれる人たちを作ってきた。だから、それは融合する時間が作ったということです。

で、もちろん単一民族ではなくてアイヌ系の人もいますし、また日本には在日系のいろいろな人もいるから単一民族説はダメなのですけれど、やっぱり長い時間の中で根羽村に住んでいる人だって元のルーツを調べていったら縄文由来の人もいるかもしれないし、弥生由来の人もいるかもしれない。意外とこの地域っていうのは京都の方から逃げてきた人たちが結構住んでいますから、またそこには都系の人とか百済系の人とかそういう人たちもたくさんいたはずなので、結構いろいろな人がいるはずなのです。

だけどいつのまにか根羽の村民になっている。それは時間が可能にしたという考えでよいと思います。だから総有の世界を作ろうとすると、本当は時間を大事にしなきゃいけない。時間を大事にするっていうのは、もともとその地域に保存されている時間の長さというものを大事にしてゆく視野を持たなければいけないということです。

ですから、いまそういうことに気がついている欧米人も結構出ている時代でもあるのです。ただその一方において、やっぱり向こうの社会の持っている底の浅さというのがあって、それは、なかなかそういうことまで視野が行かないのです。

だからグレタさんでも、グレタさんは頑張っているので「ぜひ頑張ってください」っていう気分でいるのですけど、あの人の話は面白くないですね。何が面白くないかと言うと、大人が言っているようなことしか言ってない。それを過激に言っている。やっぱり若い子が言うと「こういうことに視野が行くのか」という感動が全然ないのです。だからはっきり言うと、どこかの本に書いてあることを言っている感じだから面白くない。一生懸命頑張っていますから、足を引っ張るよりは「頑張ってね」と応援していこうという感じです。だけど一緒にやろうという気分にはならないところがあります。だからそれもやはり「社会が持っている浅さなのでしょうね」ということです。

だから答えになってないかもしれませんけど、やっぱり「社会と時間」という視点って、どうしても必要と思っています。僕も上野村に行くと「やっぱり時間の蓄積がここにはある」という、そう感じる。それは根羽に来たって同じことがあるのでしょうけど……。そういう時間の流れの中に加わっていける喜びみたいなものがあるといいますか、それもあったりするわけです。残念だが東京はそれが無いのですよね。

 

質問~3

阿南町からきましたHと言います。よろしくお願いします。

国の仕事というのは飢えさせない。安心、安全なものを食べさせる。また、絶対に戦争をしないことと思っています。沖縄のデニー知事の応援でお見えになった菅原文太さんという方がそう言いました。

デニーさんがこのごろよく言われることが、地方と国の関係は平等だと盛んに言われています。それはなぜそんなことを言っているかというと、辺野古基地の設計変更で国が県を訴えて代執行という手続きをおこなう判決が2,3日前に出たのです。けれど、それを思った時に今日のお話を聞いてですね、国とか政府って一体何だったろうと思いました。

それでちょっと今日のお話の趣旨とは違うかもしれないのですけれど、この国のあり方とか、どのような国であるべきかと言うことを少し教えていただけるとありがたいと思います。

(内山先生)

近代社会が作った大失敗は、フランスで言うと1789年にフランス革命が起きて、その時のフランスというのは絶対王政期の最後なのです。絶対王政期というのは王様の権力が歴史上最も強かったとき、つまり一番中央集権化した時です。その時にフランス革命が起きたわけです。

その事によって、王様を倒して共和制を宣言することになるのですけど、「権力のありか」といことを検討しなかった。むしろ中央権力が一番強い時に、その強い中央権力を使って、迅速に改革すれば「いい社会ができる」というふうに考えたわけです。だけどあの時に権力は「どう分散されなければいけないか」ということを誰も考えなかった。これがやはり大失敗なのですね。そのためにフランスは日本よりは地方自治は進んだりはしていますけど、やっぱり中央権力って圧倒的に強いのです。

で、中央権力が強いから、フランス革命以降何が起きたかというと、もういっぺんナポレオン帝政ができているわけです。それは「中央権力の力で、社会を早く改革するのがいい」という発想に立つと、権力を皇帝に一本化させ、それで皇帝の力で良い政治をやる。そういうものに期待を持つ人たちが大量に現れてしまったということです。

だからナポレオンというのは世界で初めて選挙によって選ばれた皇帝という、不思議な皇帝が発生したわけです。だから、その時に中央権力というのは何をやるところなのか、地方権力はどうあったらいいのかということを、きちっとその役割分担について議論すべきだったということだったのです。それをせずに近代社会を作っちゃったから、どこの国でも中央権力は一面では独裁化するし、民主主義は機能しない。そこで働いている人は苦労するという問題が絶えず発生してしまうというのが現状です。

ですから、僕はもうちょっと乱暴な言い方をすると、もう今の社会のあり方を根本的に変えていいと言うのであれば、全権は市町村が持つことが一番いいと思っています。防衛から外交まで全部市町村の権限とする。決定権は市町村にあるというものです。その場合に今の合併した市町村を基準にしていいのかというのは議論の余地があるのだけども、国じゃなくて市町村が決定権を持つということなのですね。

ところが、例えば根羽村が外交・防衛を全部やれと言われても、当然ながら困ります。当然、人はそんなにいませんということになってきます。もう一つは法律によっては根羽単独で法律をつくるのではなくて、もっと全国的な法律にしないとまずいものもあるわけです。

例えば道路交通法を根羽単独道交法で、飯田市に行ったら道交法が違うと言ったら、これはちょっと運転する方も困っちゃうわけです。そうすると広域で共通でやった方がいいものも、それからうちでやるよりは「もっと大きいところでやってもらった方がいい」ということも、根羽は委託すればいい。そうすると、とりあえず委託先としては県だから、道交法は「県で作ってね」とかです。それから防衛・外交は県でやってねとか、そういう委託です。だけど防衛・外交・道交法を県単独というのも、これまた難しい問題が出てくるわけで、そうすると県でやりきれないから「それは国に委託する」ということが起きます。

そしたら決定権を持っているけれど、出来ないことをより大きい機関に委託するという考え方です。ただそれは委託ですから、委託した結果としてどうしても承服できないことを県や国がやったとしたら、それに従わない権利を市町村は持つ。だからそういう社会の方がむしろ良くって、で、それをやった場合には沖縄なんかは一部の外交防衛の権限を委託しないという可能性が出てくるわけです。だったら委託する気になるように国が努力すれば良い。それこそ地方自治なわけですね。

ですからむしろ小さいところが全権を持つ社会というだけで、県で全部やるわけではなくて委託はしていく。委託する以上はちゃんと監視しますという、そして場合によっては脱退しますよという、そういう権限を持つということです。

むしろそういう社会にした方が絶対良い。だって教育制度とか医療制度とか、それから高齢者福祉制度とか、そんなものまで国の基準に従う必要なんか全然ないのです。今それが、国が予算と権限を全て持っているから従わざるを得ないけども、東京のような大都市における高齢者福祉と根羽村の高齢者福祉って全然違うでしょう。だからそうすると当然そういう分野を根羽は委託しません。それで根羽の場合でも根羽独自でいくのだけれども、ちょっと周辺の市町村と相談をしてですね、その辺で共通でできるものがないか検討するとか、もっと多様であってよいと思います。

だから中央に権力を集めてしまったという、このあり方がやっぱり近代社会の致命的欠陥の一つと思って良いと思います。だから王様の権限、つまり王権を共和制への移行という近代革命の時。この時が問題と思っています。

 

質問~4

大鹿のKと申します。

中央権力の話が出たのですけど、今まさに中央集権的という、そういう力は強くなっているのではないかという気がしています。長野でもスーパーメガリージョン構想、リニア新幹線で東京と大阪を1時間でつないで巨大都市圏を作るという計画があって、飯田市でも、僕の住んでいる大鹿村ではトンネル工事がされています。でも基地とか原発とかも、今の政府が地方に押し付けるものだと思うのです。

けれどもそういった力に、そういうことが目の前で行われてきたときに、具体的にどのように対抗していけばよいのか。簡単に答えがでることじゃないと思うのですけどお聞きしてみたいと思います。

(内山先生)

意見は、どういうものに対してもどんどん言わなければいけないし、また、その結果グループを作ったりして行動するっていう場合も、しなければいけないのです。けれども片方でもっていう戦略も必要なのですね。それを強く思ったのは笑い話みたいなことを言うと、去年の冬なのです。

日本も防衛力を増強して中国に対抗するみたいなことが盛んに言われました。確かに僕も、日本だけですべてを決定して構わないという世界があるのだったら、日本は絶対平和主義がいいし、軍事力なんか持たないのがいい。ところがこの世界には相手が必ずあるわけです。そうすると日本の場合は中国があるわけです。そういう世界の中でどうしたらいいかという。そうすると軍事力を持たずに、絶対平和主義と言っていれば大丈夫かという問題がどうしても出てくるわけです。

こういう問題「どうしたらいいのかな…」と思いながら、ちょうど上野村にいたのです。上野村の庭に小鳥がいっぱい来ているのです。鳥に「この問題どうしたらいいかな…」って言ったら、鳥が「待ちゃ、いいのだよ」って言ったように聞こえたのです。僕はこの手の会話は良くやるのですが、そうか「待てばいいのか」って言うのです。

中国ってこのまま持つとは思えない。それはものすごい監視社会ですし、あの仕組みっていうのは経済発展しているから我慢できている。だから経済発展が止まった瞬間には、もう我慢できないくらいの強権な管理社会を作っているわけです。だから中国が瓦解するのを待てば良いという。ところが待つっていうのは結構大変で、例えば鳥たちはその時は冬だったので、春が来るのを待っているのです。ちゃんと待てる体制を作っているわけです。

鳥っていうのは食べ貯めることができないのです。だから一日になんべんも食べているという生き方をしているわけで、食べては糞をしている。それは飛ぶから体を重くすることができないので、貯めることができないのです。そうするとだいたい小鳥でも10か所くらいは餌場を持っているのです。それで一か所くらい駄目になっていても困らない。で、だいたい10か所くらいのえさ場を毎日回っている。それは回るだけで食べないで終わってしまう場所もあるのだそうです。

それは東京のすずめなんかも皆同じで、ちゃんと10か所くらい確保していて、それがあるからこそ待つことができるのです。だから待てる体制を作るということ。もう一つは春になったら早速巣を作って卵を産み始めるわけで、そうすると、変化した瞬間に動ける体制を作っているという二つの体制づくりです。「待てる体制とことが起きたらすぐ動ける体制」この二つのことができているから待つ生き方ができるのです。

そうすると同じことであって、外交でも中国はいずれ瓦解していくだろう。その時を待つためには待てる準備をしなければいけない。それから中国に変化が起きた時に直ちに対応していく。そういう体制づくりも必要という。今みたいに向こうが攻めてきそうだから、こっちももっと長距離のミサイルを持とうという。こんなの愚策もいいところです。むしろ中国の中でいろいろな動きが起きた時、その時にどう対応するかということです。

中国っていうのは歴史的には、中で問題が発生した時にはいくつかの国に分裂する可能性が強い。その時には今よりもすごく強権的な国がどこかにできたり、かなり民主的な国ができたりとかいろいろな国に分解する可能性があるので、そういう時にどう対応するのかということです。それから待てる体制を作るためには、多少の武器が必要なのでしょうけども、それが、今日本が進めようとしているのは、アメリカが開発した相手を叩き潰す武器なのです。その頂点には原爆があるわけで、そういう武器は待てる武器なのかということです。

むしろそうではなくて、もっともっと高性能なドローンをいっぱい作る。相手を攻めるためには甚だ力がないのだけれども、飛んでくるものを落とすには大変有効というものです。ドローンなんて安いもので一機20~30万のやつをウクライナが使っているわけです。100万あれば相当良いものができて、しかも使い捨てではなくて戻ってくるものを作っているわけです。そうしたら1兆円の軍事費を使うのだったら100万円のドローンを100万機作れますから、それも蚊のように飛ばしながら相手が攻めてくるのが嫌になるという、そういうような武器です。だから防衛の武器って何なのかということになる。それをもっと真面目に考えなおさなくてはいけないし、そういうことと待てる体制を作ることだと思います。

待てる体制を作るためには、その期間も当の中国とはどういう関係にしておくのか。どういう関係にしたら待てるのか。それを別に頭を下げに行ってこいという訳ではなくて、そのことを考えて対決するとかあるいは逆にこういう点では交流するとか、だからまず体制づくりという視点でそれを考える。

それからもう一つは、待てる体制にするには周辺国とどういう関係をつくってゆくか。フィリピンとかベトナムとかいろいろな国とどういう関係を作っていくのが、待てる体制づくり、待つことを可能にする仕組みというものをやっぱり作らなくてはいけないと思います。

そうすると残念ながら日本の社会も、ある程度待つしかないものがいっぱいあって、例えば僕らから見ると愚の骨頂みたいな、三陸地域に大防潮堤を作っているわけです。だけど三陸の津波って多くて100年にいっぺんくらいの感じです。それで防潮堤のコンクリートの寿命は、よっぽどメンテナンスをちゃんとやって100年なのです。あのまま放置しちゃうでしょうから、多分50~60年でコンクリートは崩れ始めるって言うのです。これ何のための防潮堤という感じになるわけです。でもそこに巨額の予算が投入されていく。

僕と仲の良い建築学会の親分のような人がいます。彼も防潮堤には反対という。だけど「まあいいか、出来てしまったものは」、どうせ「100年後は砂になっちゃっているのだから」と言うのです。これを教訓として、またみんなで100年後は考えよう、「それでいいか」と言うのです。

本当はそうしたくないのだけど、もう不気味な構造物ができちゃっているわけです。そうしたら、その時にこれは大失敗だったというふうに人々が感じる。やっぱり時を待つしかないって言うのです。でも、その時を待つためには、そういうことを言い続ける人は必要になるわけです。それが待つ体制づくりになっていくのです。

今でも大阪で万博やるって言っています。実は僕は名古屋万博の時に委員になってくれって言われたのです。で、僕「嫌だ」とか、第一僕は「万博に反対だから」って言ったら、反対でもいいから「なってくれ」って言われました。その時にとにかくやり方が悪いのではなくて「いま時、万博をやることに反対」という。だからとてもじゃないけれど、そんなものに一緒になる気にならないと言ったのです。それが、また大阪でやるって言ってて、しかもあの後はカジノになるという話です。「何をつまらないことを考えているのか」って言うのだけど、そういうふうに言いながらも、いっぺん「大失敗をしてみたら」という、その時を待つしかない。それが始まっているから工期が間に合わないとか、いろいろな問題が起きちゃっているわけです。

ですから経産省の役人さんは大変な思いをしているのでしょうけど、そもそもその地域社会を作っていく時に、ああいう物を通して地域社会を作っていく、その発想自体が実に昭和的ですね。だけどまだそれで動く。そのような政治家と経済界と地域社会があると言う一面も認めざるを得ないので、それが瓦解する時を待つ。だけど待つためには、待つために頑張るということです。

その辺は、やっぱり一面では僕らは「待ちながら解決していく」という、そういう気持ちを持ちながら、でも待つというのは「黙って昼寝をしていることじゃないよ」という、そのことも同時に考える。そういう視点もいるのではないかと思っています。

(文責 髙橋寛治)

 

※この講演集は、アヲハト会が2023年10月7日に根羽村で開いた内山節先生の講演を文字化したものです。

内山先生講演.pdf