協同社に見られる「コモン」の思想 について知っていることをぜひ教えてください

飯田市高橋寛治さんの2021年12月にFBに投稿されたレポートを高橋さんの許可をいただいて転載します。

 

 

 

協同社に見られる「コモン」の思想

 

地域政策プランナー 髙橋寛治

はじめに

 協同組合は「共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために自発的に手を結んだ人々の自治的な組織である」(国際協同組合同盟による定義・価値・原則より)といわれている。

 

 今から150年ほど前、明治初期は社会の変革期であり、幕府の大政奉還以降に続く国内の混乱は単に士族の反発だけでなく、幕藩体制を支えていた本陣、問屋、それに村を治めていた庄屋など村方や農民自身にも混乱を招いた。かつ、その全ては彼らを取りまく外的な要因に起因したものであった。

その中で明治7(1874)年5月12日に飯田藩の旧藩士が生活安定のために設けた「協同社」(後に「協同合資会社」と改組)は、まさに思想の変換期に自らが選択した自らの仕組みといえる。協同社は版籍奉還後の明治7年4月に武家地の払い下げを受けた旧飯田藩士が同年5月12日に設立した授産会社である。その払い下げ組織の活動は、飯田城の外堀の埋め立てによる新しい市街地の形成、また城下を二分していた谷川橋(改良後は「長姫橋」)の工事に協力して資材・資金・労力を提供。結社当初から土地の活用を通して「公」の精神を基本として工事の一翼を担っている。このことが協同社設立時の「協同結社記」に書かれた内容につながる。

それによると、協同社は飯田藩の「旧藩ノ士族」を「一社」とみなしたものであり、開墾地は「社中一同の持地」とし、その処分することは幹事にすべてを委任し、飯田町の戸長と協議のうえで万事の取り扱いが行われることとした。さらに社中の土地は自らの営業用と考えられ「余人へ又貸の儀は堅く禁止」となっていた。また土地経営においては不動産の貸し付けを固く守り、その利は「正路ノ利」(せいろ=人のふみ行なうべき正しい道)をもっておこない、暴利をむさぼってはいけないことが記されている。このことは、その後の学校や役所など多くの公共施設の整備に用地を市価より安い価格や無償で提供しており、その資産処分には一定の公共性を社会から期待され、自らも倫理性を内面化していた。

 かつ前述のように「社中一同の持地」としたが、このように土地の所有形態を「総有」としている。これにより各社員(旧藩士)には持ち分はなく、利用・収益件のみを持つ組織となっている。また長姫橋の橋梁整備には県や町の期待に応じ、市街中心部の都市計画に寄与している。一方で明治14(1881)年の規約改正においては純利益の10分の2を予備として、米穀を積み置くことにまで手を伸ばしている。

これらからは単なる土地の所有者をこえて未来を志向する計画結社でもあった。

 

 明治初期は地方制度や公共的意味合いを持つ施設や組織自体の形成期にあった。社会のために必要なことでも、受益と負担、また利害調整や事業実施などの行政実務の定義自体があいまいな空白の期間でもあった。それだけに、受け皿となった協同社では上士から下士まで全ての藩士を包含し、共同体で土地を所有し管理する事業体として、地域計画にまで手を伸ばしている取り組みは協同組合の定義・価値・原則に酷似している。

 

(1)「協同社」が生まれた時代と趨勢

 1,幕末と飯田藩

江戸時代の末期は動乱期であり、幕府の開国政策と薩摩・長州を中心とした尊王攘夷の動きは、震源地の薩・長の内部でさえ揺れ動いていた。その中で信州飯田の堀家は1万7000石の小さな藩であるが、幕府からの要請に基づき慶応2(1866)年の第2次長州征伐には幕府側として出陣していた。ところが堀候の任務は物価が高騰していた大阪の警備を命じられた。幕府軍が長州で敗れ7月20日には将軍家茂が21歳で死去。継いで徳川慶喜に15代将軍が引き継がれた。この混乱の中で飯田藩主親義は京都守護職として主に御所や二条城の警護についていた。

慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れたことにより、御所の警備の任についていた飯田藩はそのまま京都に駐留した。このことが世上の情報源となり、いち早く藩論を統一し勤王討幕に藩論を統一する立場に立つこととなった。

 

 藩論の統一には良い指導者が必要であり、家臣から信頼されていることが前提である。当時の飯田藩家老は石澤謹吾であった。石澤は若い頃江戸で育ち、弘化2(1845)年からは若殿の御雇を命じられていた。安政の大獄の直前の安政5(1858)年6月9日に群奉行・町奉行・寺社奉行の三役兼務で国元勤務を命ぜられ飯田へと移住した。その直後には「南山36ケ村騒動」(注2)や「津藩君命史」(注1)など藩内外の難題に対応し、激動の慶応4年(明治元年)には家老となっている。

 明治2年に版籍奉還により石澤は飯田藩大参事、続いて廃藩置県により飯田県の大参事を勤めたが、その中で新しい県の概念・役割をつかみ、藩士の保護に自らが責任のあることを自覚した。

翌5年飯田県は筑摩県へ合併したことによって石澤は大参事の職を辞し、直後から3年間の全国視察に出ている。このころの士族は生活に困り秩録公債や家屋敷を手ばなし、苦しい生活をしいられていた。明治7年4月に飯田へ戻った石澤は、士族の意をまとめ生活安定のために外堀など6000坪の無償払い下げを受け、5月12日に士族の授産会社「協同社」を設立するに到った。旅で目にした各地の士族の惨状が、改めて「公共」もしくは「公共の福祉」を示す組織を設立する機会につながっている。

 

 2,石澤謹吾が旅から得たもの

 石澤謹吾による明治5(1872)年8月~明治7(1874)年3月までの旅では、一次が東京から北海道まで東日本を見た。明治2年以降北海道には開拓使が置かれ、同4年には旧白石藩士の大規模な移住がおこなわれていた。4年8月には諸藩の分領支配が決まるとともに活動は本格化、士族による開墾も進められていた。また5年1月には函館戦争から3年が経ち、東北鎮台の分営が各所に置かれ、奥州の城郭の処分も進んでいた。

多くの城で建物の取り壊しが続く中、松前城、弘前城は4年11月に青森県へ廃棄と地所の開墾を願い出るが許されず、一方では羽後の米沢藩は4年3月に城の周囲の開墾を願いでて聴許されるなど、飯田の士族と共通し藩士の生活維持に対する出来事が各地で動いていた。

 また二次の関西・九州への旅では北陸経由で向かった。その先、長崎、熊本、佐賀に立ち寄っていることが分かっている。その中で佐賀では乱の前日(明治7年2月12日)に佐賀へ滞在し現場での緊張も体感していた。この時に幕府の密偵と勘違いされ、宿に佐賀藩士が乱入。身分を明かすために「旅日記」が没収されたままとなった。

この国内の視察では、藩邸や江戸城という情報の中枢を失った士族にとって、各地の試みや社会情勢を知る貴重なものであった。これが士族の授産を新政府の政策に問うのではなく、自らの責務とすることとなる。明治7年4月に飯田へ帰り、その翌月には他藩に先駆けて旧藩士の生活安定のために「協同社」の設立へつながった。

 

この時に新政府からの影響があったとは考えられず、一方で士族の困窮は武士の怠慢を超えた原因にあることを認め、そのうえのでの措置と言える。この協同社の設立には石澤が明治2年に太政官より飯田藩大参事、続いて飯田県の責任者を経験。そのうえ全国をつぶさに歩いて得た施策と考えてよい。

それは協同社が公的な資産の活用による授産組織であること、原資となる城下の用地は県令を通していち早く新政府に払い下げを提案し道筋をつけたこと。また、協同社は士族が直接経営する仕組みとして設置(当時の士族180余名)したことなどがある。どの施策も広い視野と各地の士族の困窮状況を見てきた足跡が下敷きとなっている。なお石澤は協同社設立直後に東京へ出たが、生活の苦しい者のために協同社幹部と打ち合わせて対策を講じ、その手紙がたくさん残されている。

全ての士族で組織し支援・救済を行い、以後このようなことに陥らないように協同の力を生み出してきたことに、新しい時代に生きる組織の意味を見いだす。

 

※3男石澤愛三氏が父から聞いた話。「慶応4年の鳥羽伏見の変にあたり、謹吾は藩侯に従って京都に上った。たまたま飯田藩の奥向きの用をつとめていた茂木助左衛門が『謹吾らはひそかに慶喜公に仕えて、異図を企て、藩論を誤らせようとしている』と藩侯に偽りの訴えをした。藩侯はまた軽信し、謹吾ら3名を捕らえて岩倉具視のもとに差し出した。事態は切腹寸前までいったが、同僚藩士たちが強く無実を訴え、真相を探求の結果、危機一髪で無罪放免になった」という。

 謹吾にとってこの経験は後に警視庁へ仕官した時、短い期間であったが自らの牢獄での体験を経たことが、後の監獄長として各地を回り、牢内での生活の改善と監獄官の資質の向上につながった。

 

(2)明治維新の国内制度と飯田藩の動き(年表)

 1,幕府と明治政府の動き

慶応3(1867)年10月14日=大政奉還

 ⇒幕府が直轄領に対する土地の支配権および大名・領主に対する人的支配権を将軍から天皇に返還

慶応31867)年12月=王政復古

 ⇒天皇を中心とする政権の樹立

慶応41868)年13日=鳥羽伏見の戦いが始まる

慶応4(1868)年9月8日=慶応から明治へ改元

明治2(1869)年6月23日=版籍奉還、堀親義が飯田知藩事へ任命される

 ⇒版籍奉還は堀家から天皇への封土と領民の返上

明治3(1870)年=この時期、全国的に城郭破却と開墾政策が進展

※城郭は軍事上の有効性を失い、旧時代の象徴として不要と見なされた

明治4(1871)年4月=戸籍法の制定

明治4(1871)年5月=年寄、問屋、庄屋等を廃して戸長を置く

明治4(1871)年7月=廃藩置県

 ⇒藩主権力の解体と天皇政権への集権化

明治6(1873)年1月14日=廃城令

明治6(1873)年7月=地租改正法の公布

 ⇒明治政府が行った租税制度改革。この改革により、日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立する

 

2, 飯田藩の動き

寛文12(1672)年6月1日=藩主堀親昌、下野烏山より飯田へ移封

慶応2(1866)年11月15日=将軍慶喜は京都守護職松平容保配下の「京都見廻組頭」に外様大名の堀親義に命ず

慶応31867)年429日=堀親義は左衛門尉となり、京都守護職や所司代の配下として将軍直属の廷臣として京都警備にあたる

慶応31867)年1015日=大政奉還。

※公表後、将軍は堀親義ら側近を呼び忠勤を謝し今後のことを指示。以後、堀親義は御所警備が主要な任務となる 

慶応3(1867)年12月24日=堀親義は御所警護であったが翌4年1月3日に鳥羽伏見の戦いがあり、幕府軍の敗退以降天皇家菩提寺般舟院警護に移る。その後藩主親義は恭順し東山道鎮撫軍を京都で見送る

慶応4(1868)年2月17日=飯田藩江戸屋敷へ徳川慶喜からの嘆願書が届けられ藩主親義へ渡すことを依頼される。この嘆願書は蜂須賀茂韶に依頼して朝廷に届けられた。岩倉具視は家老石澤謹吾を呼び出し飯田藩の立場を追求。これにより幕府に内通との疑いを受け藩主親義は急遽家督を譲る

慶応4(1868)3月=11代藩主堀親義が隠居、12代堀親広城主となる

慶応4(1868)年4月21日=尾張藩中ノ条陣屋から太政官軍防局の内示として,飯田藩に出兵を命じる示達が到来

慶応4(1868)年4月23日~11月17日=北越戦争に飯田藩士77名が参加

明治2(1869)年9月2日=堀親広が飯田藩知藩事に任命される

明治2(1869)年6月24日=二分金騒動の勃発、藩財政は窮乏。

 ※薩摩藩御用達の肥後孫左衛門が贋造二分金1万3000両を飯田藩へ持ち込み混乱、藩が正金と引き換えることを保証して静まる

 ※結果として、藩財政が窮乏し藩が一丸となって財産処分に向かうことにつながる

明治3(1870)年=飯田藩士によって城郭の樹木や武家地の売買始まる

 ※8月27日=伝馬町枡形の「いろは杉」48本を入札、切り倒す

明治31870)年10月=飯田藩士族より城郭・外堀地の開墾願いが弁官は太政官に直属し各省および地方行政庁の連絡担当官

  ※4年には飯田藩自身が道具類の競売や門や塀を売却

明治4(1871)年2月20日=政府より飯田藩知藩事堀親広一族に東京移住を命ず

明治41871)年714=廃藩置県により飯田県となる。合わせて飯田県の責任者として石澤謹吾を大参事に任命

明治4(1871)年7月=飯田城の取り壊し本格化

明治4(1871)年8月8日=開墾・鍬下年期取調を提出

 ※内容は大風で門や塀が壊れたので取払い開墾しても良いか、年貢について取り調べて報告するとのもの

明治4(1871)年9月6日=堀知藩事が飯田帰省

 ※9月23日には堀家東京移住

明治4(1871)年9月13日=外堀の埋め立てを始まる。以後11月23日まで続く

 ※この間、士族は90~95日の労働をしている。ちなみに町人は各町に分けて93名が人足を勤めている

明治4(1871)年10月14日=戸長・副戸長を定める

明治4(1871)年11月20日=飯田県は筑摩県への統合により、その一部となる

 ※飯田に主張所設置

 ※大参事石澤謹吾職を辞す

明治5(1872)年1月=飯田藩士にそれぞれの居住地が払い下げられる

明治5(1872)年1月=練兵場の払い下げ申請、翌年の実地調査で開墾地となる

明治5(1872)年2月11日=上田鎮台から山県頼助が来て城を受け取る

 

3, 協同社の動き

明治31870)年10月=飯田藩士族より城郭・外堀地の開墾願いが弁官へ出される

明治4(1871)年=大蔵省宛ての開墾と鍬下年期収税取調調査の裁定

 ⇒ただし「留めたるべき事」として先送りされる

明治7(1874)年1月=政府の許可により、士族による「開墾申合帳」を筑摩県貫属へ提出し一致団結を誓う

明治7(1874)年5月10日=堀端開墾地が士族に払い下げられる

明治7(1874)年5月12日=旧藩士の生活の安定のために「協同社」の設立

 ⇒士族180余名参加

明治11(1878)年2月25日=谷川橋の新築費用、士族集団に長野県より出資要請。城郭の石材と30円程度の提供、後に予算増額で200円に出資増

明治14(1881)年=協同社の規約改正

 ※設立時の規約が現状に合わないために改良。①共有地の一部を売却して資本とする②業務は養蚕・製糸・桑樹栽培・貸金とする③当面は資本が少ないので貸金を優先する④資本金は3万円、1500株、一株20円とする⑤株主は186戸とする

明治29(1896)年5月12日=協同合資会社に改組

 ※①社長矢沢鞆治、支配人野々口貫一郎、本社飯田町573番地②66名で組織する③資本金総額は1万0270円④営業の目的は不動産の貸付、貸付金、不動産の売買⑤出資の譲与は相続人、旧士族に限る⑥学校、公共建物、道路建設には寄付や少額の売却価格で奉仕

 

4,石澤謹吾の動き

天保元(1830)年11月14日=飯田上荒町にて藩士石澤権左衛門信方の長子として生まれる

天保2(1831)年10月2日=父信方が江戸詰を命ぜられ江戸藩邸に移る(堀候の藩邸で育つ)

弘化2(1845)年=若殿付御雇を命じられる(若い頃には西欧の事情を学ぶ)

安政4(1857)年6月=父の死去により、家督を継ぐ

安政6(1859)年6月9日=群奉行・町奉行・寺社奉行で国元勤務を命ぜられる

万延元年(1860)3月23日=新任者として上郷を一巡(領内を巡視)

文久元年(1861)3月3日=御側御用人・表御用人を加役で飯田潘の中心人物となる

文久元年(1861)12月13日=諸役を御免となり御年寄・中小姓支配役を命じられる

慶応2(1866)年正月=江戸家老に登用さる

慶応3(1867)年10月13日=在京40藩の重臣の一人として二条城に登城し大政奉還を評議。(将軍慶喜は翌14日に明治天皇へ大政奉還を奏上)

明治4(1871)年7月14日=明治政府より飯田県大参事に任ぜられる

明治4(1871)年11月20日=飯田県は筑摩県への統合により大参事の職を辞す

明治5(1871)年8月=家財を整理して500円を作る

明治5(1872)年8月~明治7年(1874)年3月=全国への旅に出る

 ⇒一次が東京から「奥の細道」跡をたどって奥州へ向かい、北海道では函館、室蘭、松前の奥地を巡り、青森、両羽を回り信州を経て11月に東京に戻る。

⇒二次の関西・九州への旅程は通りなれた東海道ではなく北陸経由で向かった。その先で長崎、熊本、佐賀に立ち寄っていることが分かっている。

⇒この旅から明治7年4月に飯田へ帰り、翌5月12日に旧藩士の生活の安定のために「協同社」の設立につながる

  ※石澤謹吾は協同社の設立後に経営を同輩に任せて明治8年に上京、警視庁に勤務。

明治8(1875)年6月25日=警視庁十三等出仕に補せられる

⇒これ以降警視庁権中警部に累進、昇進と共に鍛冶橋監獄署長となり、監獄史の道を歩くこととなる                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

⇒明治10(1877)年2月19日=西南の役の征討令が発令になると、現職のまま警視別働第三旅団の大隊長として大阪から鹿児島へ向かう。特に兵站を担当する。

明治10(1877)年10月13日=帰庁後、陸軍中尉に任ぜられる

明治11(1878)年1月19日=西南の役の敗戦兵を収監するため東京と宮城へ国立の刑務所を作ることとなり、宮城県へ出張、建設委員の次席に就任。(この時に造られた宮城集治監は後の宮城刑務所)翌年、宮城集治監が完成し監獄長となる

 ※宮城集治監は西南の役の受刑者の中で、刑期1年から5年の者301名であった。なお、その後の外相陸奥宗光もいて3年間をここの独房で過ごした

 ※明治12年(1879)4月7日=宮城集治監が完成し監獄長となり、それ以降明治15年から東京集治監長に移り以後14年間務め、明治28年北海道集治監長に移り、6年間務める。この北海道に勤務中、道内の監獄を視察して改良・近代化、監獄官吏の資質向上に大きく力を入れた。

明治34年(1901)10月=司法省本省監獄事務官として東京に戻る。

明治35(1902)年1月=司法本省監獄長(高等官二等)を73歳で退き、「日本監獄の父」と惜しまれる

大正6(1917)年5月12日=自宅にて死去、88歳

 

5,石澤謹吾が飯田藩で関わった事件と対応

(1)「津藩君命史」(注1)

安政6年、飯田藩に勢州津藩の藤堂家の元家臣村瀬孫右衛門、養子房吉親子が弓術師範として滞在していた。この両名は、津藩弓術師範吉田六左衛門の門下であったが、意見が合わず出奔して飯田藩の食客となっていた。このことを知った藤堂藩(27万石)は、不届き者として父子の引き渡しをきつく堀藩(1万7千石)に申し入れてきた。村瀬父子は、当時の藩主に仕えきわめて誠実な人物であったため、藩士はこれを惜しんで藩主に助命を願い出ていた。

そのようなことから石澤は藩主の命をうけ側用人の資格をもって津藩に使わした。津藩と話し合い、村瀬家を断絶し、藤枝家とすることを条件に藤堂候を動かし無事に落ち着かせた。十分の一にも満たない小藩の代表が、藩の体面を表に出して強硬に申し入れてきた大藩と渡り合い、事件を収束した外交手腕が高く評価された

(2)南山36ケ村騒動(注2)

「津藩君命史」の時に石澤の人物を評価し津藩主藤堂候を動かしたのは、斎藤拙堂と言われる。斎藤は、この安政6(1859)年12月に飯田藩の隣領(奥州白川藩領)南山36ケ村(現飯田市の龍江・千代・泰阜村)の領民1616名が市田村の原町陣屋へ強訴した。この時に飯田城下を通過しようとしたので、これを阻止して、八幡河原で原町代官と対決交渉させた。この石澤郡奉行の動きを知っていたからだという。

 

(3)外様大名が幕府中枢を担った江戸中期からの変化

 これらの飯田藩と幕府の関係変化の始まりは、江戸期からの大名の状況、特に中期以降、外様の幕政への参加が底流にある。このことを指摘したのは飯田市美術博物館評議員の鈴川博である。

 鈴川によると諸侯の数は一定しないが天保初期で比較してみると、全体では244家であり親藩・譜代が148家、外様が96家であった。この中で5万石以下の小大名の数は親藩・譜代が100家、外様が65家で約3分の2は小大名で小藩が多いことが基本である。

飯田藩は外様の小藩であったが「五代将軍綱吉の治世から絶対主義的封建勢力へ変質し、それが堀飯田藩の体制変革にまで及んでいた」「農業から商工業の発展へ進まざるを得なかった飯田藩の立場」が連綿として歴代将軍に受け継がれた。かつ、この藩体制の変化を財政の中から「外様大名として幕府の中核に参加した堀親(飯田藩十代藩主)が、いかに飯田藩の政策を『天保の改革』に取り入れたか」「『天保の改革』に外様小大名堀氏が参加したことは、江戸幕府の本質を変え、次の『明治維新』へと時代が転換する前触れであった」などの主張に表れている。

 なお、飯田藩10代城主堀親(ちかしげ)が幕政の重職(老中格で勤める)に就任し次々と昇進できたのは、幕藩体制の変質と同時に、親寚の幅広い人脈と領内の経済力、さらに自身が領主としての才覚や組織力が優れていた点は見逃せない。

 

(4)協同社と開墾地の土地利用

1,総有の必要性

私たちが暮らしの中で豊かさを実感できない一因は土地を個人が所有することにより大きな担保価値を持ち、一方では相続によって資産の大小が生まれることに起因する。その解決には土地を公有や地域有にすること、地域空間の管理は住民が主体になることが求められる。そのことが地域社会を永続させる基礎となりうるからである。

前章までにまとめた「協同社」(後の協同合資会社)は旧飯田藩の藩士が自らの知恵・労力と出資を行うことによって飯田城址など開墾地を総有し、その組織は今日まで続き、今年(令和4年)で147年の歴史を刻んでいる。

 

2,協同社の土地利用と「総有」

 「総有」という土地利用は古くからの慣習に従っている。

この代表例が共有山(入会山)である。農民の入会山は幾多の困難(幕府林との境界、他の集落との利害の調整など)を乗り越えて、耕地民全体の山となっている。山林はあくまで地域共同体に所属するものであった。したがって山稼ぎは共同体の掟にしたがえば自由に利用できた。

 ところが明治中期になると昔からの慣習では律せない出来事が生まれてくる。それは居住制限が解かれ、一方で職業が自由になったことから、よそ者がムラに住むようになったことである。また農家戸数も分家によって増加を始めた。この時に初めて山林保護を目的に「共有山保護誓約書」が定められ「地域総有」の財産であることが表面へ出てきた。

 その精神は一足早く明治7年に協同社が設立された時にもつながる。藩士の授産の場として城下町の中に生まれた協同社は、ひとつの目的で結ばれた共同体として一定のルールのもとの土地管理組織として先駆であった。そして、この協同社の設立にあたって明治7(1874)年の『協同社結社記』には「開墾の地 社中一同の持地となし」と総有を明記していた。

明治初期に各藩は解体され明治政府に集権化され、城跡は処分の対象となった。重要地点の大きな城は国家を守る鎮台となったが、それ以外は大蔵省の管轄となり、生活に困窮していた武士が生活維持のために払い下げを求めるのも当然であった。ただし城主が藩を治める場であった城跡は藩士全体の管理にすべきものであり、そこに個人の所有や藩士個々の持ち分生まれるよりはなかった。そこに総有が生まれるのは当然の帰結であった。

 

 

3,土地の所有形態

土地の利用形態は大きく分けると下記のようになる

 

形態

基本的権利

処分権

その他

 

総 有

(財産区が代表例)

各所有者は持ち分を持たない。団体は利用・収益件のみを有す。

管理権は慣習や取引により代表者が行使し、持ち分請求権は持たない

構成員が脱会するとき、持ち分の払い戻し請求が出来ない。

 

共 有

それぞれの関係者が持ち分をもって、一つのものを所有する

持ち分の処分は自由に有する。

 

個人有

所有者の判断による。

所有者の自由。

 

 

                                                              

4,総有的な土地利用の実態

 私は飯田市で仕事をしながら、多くの事業で「総有的な土地の利用」の精神を大切にするように指導されてきた。それは前述のように市民一人ひとりが安心して住み続ける仕組みとして有効であり、住民自身が地域や住環境の保全に努める基盤と考えられていたからである。そのためには個人の財産としての側面を小さくし、皆が全体の財産として環境を守り利用することが望ましいと考えていた。

この総有の精神を近代のルールとして利用したのが飯田市川路地区の「かわじ土地管理組合」といえる。昭和36年の大水害以降に40年間利用が出来なかった農地に対して、土を盛り上げて平成14年に新しい台地30haが生まれた時の取り組みである。ここでは土地の所有と利用を分離し、所有は土地の権利者に置きながら、利用については「かわじ土地管理組合」が一括して管理している。これは災害跡地を地域全体のために個人の所有を全体の利用にゆだねた事例である。

次に飯田市の中心市街地に林立する再開発ビルである。その中で最初に出来たのが「トップヒルズ本町管理組合」という。市街地再開発事業では、建物の区分所有する面積に応じて底地の中に持ち分も所有している。その意味で土地は持っていても自分の所有部分が顕在化しない仕組みをとっている。

また三番目の事例としては飯田市下久堅の大原耕作者組合の土地利用である。この組合は下久堅北部地区再編農業構造改善事業を柱として複数の農業施策を積み上げながら「活力ある農村づくり」を目的とし、担い手農家の育成と農用地の利用集積を図ったところで、テーマは「りんごと牛で豊かな未来」であった。

ここで出来上がった農地の単位が0,3haと大きなことに対して、兼業農家のリンゴ栽培では早生から晩生までりんごの品種が多く、大部分の新規就農者にとって消毒から維持管理に新しい仕組みを学ぶことが必要となった。この時に生まれた「作付栽培協定」によると、栽培区域の中で土地の所有はそれぞれに区分されているがリンゴは早生・中生・晩生と品種ごとにまとまっていて、かつ、果樹棚は全体の共有物となっている。このことは、都合により果樹栽培から手を引く時でも、残った農家がりんご園の管理を引き継げる経営形態となった。

 

5,これからも期待される「総有的な土地利用」

いま大切なことは「総有」という土地活用の考え方である。そしてこのような総有の思想は広く社会の中で活用されてきた。農山村には総有の山があり、農業用の水路も共有にもとづき集落の管理が行われてきた。ムラの心臓部は共に地域を管理するという考えで維持されてきた。

 さらに新しい動きとして山は所有者のものであるため、近代法では、そこにある草一本、石一つまで所有者のもといえる。ところがほとんどの伝統的なムラの慣習では、山の所有権は立木にしか与えられていない。山で山菜を採ったり、枯れた草や木の枝を拾うことは共同体の仲間なら誰にも許されていた。したがって立木以外のものは村人の総有物といえる。

 しかも地域の共同体の中で成り立っていれば分かりやすかった関係が、最近は「森はみんなのものだ」と変わってきている。ここでは総有関係と構成するメンバーが誰なのかはっきりしない「総有」といえる。

今回の協同社(協同合資会社)は明治の初期の社会制度が固まらない中で、個人の欲を顕在化させない意味を持った仕組みといえる。

逆に考えれば、当時の伝統的な社会にあっては総有関係を壊さない「作法」があった。江戸期に広く行われていた「講」はもとより、道普請や草刈り、また近隣の葬儀においても取り決めの無いあいまいな部分が多く、このあいまいさを維持するのは、その地域社会の「作法」であり、それは先ほどの山や森の入会にも言えることである。

 

ここで思い起こすのが島崎藤村の『夜明け前』、山林の利用を巡る入会権という問題だ。山野を利用する権利は「村落共同体社会で昔からやってきた」といっても、その利用権を法的権利として確定するのは簡単ではない。それは尾張藩から国に引き継がれた木曽の山林の利用にからんで、慣習として存在した利用権を、所有権を絶対とする近代法がいかに受け入れるかという問題だった。

尾張藩は山林保護で入山禁止の山と、入山し利用できる山を分け、さらに米を安く支給するなど村民救済策を怠らなかった。半蔵は明治4年12月、名古屋縣福島出張所に木曾谷33ケ村総代15人連署の嘆願書を提出したが、その中身は「海の漁民に殺生禁断がないのに、山には入れない留山があり伐採ができない御停止木(ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラ)がある。この改革を機に享保以前の古に復し御停止木を解き、山林なしでは生きられないこの地方の人民を救ってほしい」と願い出た。

しかし親藩の尾張藩の行政が簡単に受け入れられるはずがない。御停止木の解禁は不可、五木のあるところは官有地と心得よという予想外のきびしい回答で、「官有林」とされた山に入って捕えられる村民が続出した。半蔵は古い文献を調べ、人民の入れない巣山・留山はあるが、明山は自由に入って五木以外は伐採できた実情の理解を求めて、再陳情を筑摩縣にしようとする矢先に福島支庁から呼び出され、戸長(旧庄屋)免職となった。半蔵は嘆く、「御一新がこんなことでいいのか」が『夜明け前』の全ての始まりであろう。

 

(6)県内の士族の動向

 江戸時代の幕藩政治から近代に切り替わる時に、石澤謹吾は小さな飯田藩の家老にありながら各地を歩き、世の動きに敏感に反応し士族の暮らし向きを考えた。これは長野県内の藩を見ても切り替えが早く、先見性を保持していた。

 ちなみに長野県内の似た組織としては

{C}①  松本市の旧藩士が出資し株主となり、戸田家から堀の土地等を譲りうけ当初は養魚業をし、現在は堀を埋めて不動産賃貸業をしている。

{C}②  小諸市の「宗教法人懐古神社」。明治4年(1872年)の廃藩置県で小諸城は役割を終え、明治13年(1880年)に城郭は小諸藩旧士族へ払い下げられた。旧士族により本丸跡に懐古神社が祀られ、「懐古園」と名付けた。現在は公園として小諸市が借り受けている。

がある。

 

(7)おわりに

 ここにまとめた協同社の歩みは身近な資料を読み、その関連をつないだものです。具体的には江戸末期から明治29年までを中心に、飯田藩士の活動から生まれた授産会社(協同社)の取り組みといえます。この会社は後に「協同合資会社」と改組されますが、明治初期に秩禄(ちつろく)を失った士族が生きる術を何に求めたかを調べたことが始まりでした。

明治政府はそれまでの秩禄を廃止し、金禄公債(きんろくこうさい)を武士に配布。少しまとまった金(俸禄の5年~14年分)を武士に与えることによって、無期限に続く政府の支出を回避したものでした。維新後、農民は地租改正によって土地の所有が認められる一方で士族は否定されたままであった。それまでの武力提供は徴兵令で失われ、廃刀令で刀も失い士族の特権も誇りも失われたのが明治初期であった。明治4年に華士族の職業の自由も許されるまで士族は公債や家財・書画を処分しながら日々を送る「竹の子生活」で飢えをしのぐしかいのが現実である。

この貧しさを一番知っていたのが家老であり飯田県の全てを任された大参事石澤謹吾であった。石澤はこの貧困を士族自身の怠慢を超えた原因であることを認め、江戸時代の身分の違いを超えて支援・援助を行うこと、また今後窮乏に陥ることがない対策を目指すことは大参事にとって大きな役目であると認識していた。これらの動きは協同社の古文書に残るように家臣一同が話しあい、明治3年10月の弁官への開墾の伺書、同4年の大蔵省への伺書などを経て、「開墾申合帳」を明治7年1月に筑摩県貫属へ提出し、一致団結を誓うことへ動き出すこととなった。

この構造的な貧困への取り組みは二つの側面を持っていた。一つは城下の外堀などの払い下げを受け、この用地をもとに自らも出資してつくった授産組織(協同社)の運営にあたること。もう一方は藩士による組織として、城下町の都市計画への参加も大切な取り組みであった。藩士のそこへの参加は公共事業による仕事を確保するものであり、この仕事・賃金・食料等の提供を行うことが大参事には求められていた。ここから石澤謹吾が大参事を辞し3年間にわたって全国を見聞して歩くことも生まれた。各地を歩きながら石澤が飯田藩との連絡を取っていたことは、明治7年3月に飯田へ戻り2カ月という短期間に「協同社」を設立したことからもうかがえる。かつ協同社の設立後に経営を同輩に任せて、同8年には上京して警視庁に勤務し、外から経営を支えていたことが文書として残っている事実からもうかがえる。これらが80歳を過ぎてから話した自らの足取りの中で「協同社を起す」と語った事実にもつながるものである。

この協同社は「コモン」を考え、個人の欲を顕在させないために生まれたのが土地所有の仕組みであった。そこには藩士としての身分を続けてきた協同意識に原型がある。それは同じ時期に金禄公債を原資として、多くの藩士が銀行の設立に関わっていることからもうかがえる。(銀行の詳細は別途)

 

私たちの生活にとって「法」は基本といえる。でも明治の混乱期に自らの過去を見直し、自らの生きる術を自らが考える。これが今回の協同社から見えることであり、その意志を学ぶことには意味のあると思う。

 

(8)出典

1,博士論文「明治前期地方都市に関する地域史的研究―長野県飯田市を事例として―」江下 以知子

2,『協同合資会社社史』(協同合資会社刊 昭和59年9月17日)

3,『飯田城主堀家』(村沢武夫著 伊那史学会 昭和52年9月20日)

4,『伊那』(日下部新一著 伊那史学会 昭和50年7月)

5,『長野県警百年の歴史』(永井誠吉 著 サンケイ新聞社 編 昭和52年)

6,『信州飯田領主 堀侯』(飯田市美術博物館刊 令和2年3月)

7,『消された飯田藩と江戸幕府』(鈴川博著 南信州新聞出版局 平成14年7月15日)

8,『飯田藩戊辰戦争始末』(中川浩一著 茨木大学教育学部紀要)

9,『石澤家回顧録』(石澤六郎刊 中央公論事業出版 平成14年3月30日)

10,かわじ土地管理組合総会資料

 

 

 

 

 

協同合資会社の土地で行われた市街地再開発事業(堀端地区)の工事現場

協同社に見られる「コモン」の思想 2.pdf
 


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